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エンドロールを見ずに席を立つ人に憧れている

 「好きな映画は?」という質問はふしぎ。映画が人生を描くものなら、他人のそれと同じように、目の前をさらさらと流れていくだけで、心に残るものなんて本当はない。
 けれど、「映画を見たということ」はどうしても記憶と結びつく。最近でいえば、「殺さない彼と死なない彼女」と、実写版の「ヲタクに恋は難しい」。どちらも映画館で見た。

 殺さない彼と死なない彼女は、渋谷だ。2週間ほど家から出なかったとき、外出のリハビリと称して、日が沈んでから副都心線に乗った。

 ロフトの、謎の歯車の向いにあるシネクイント。ミニシアターの最後列で、桜井日奈子ちゃんが間宮祥太郎くんに救われていく様をひとりで目撃した。

 始まって5分あたりから、涙が出てとまらなかった。6人の登場人物はみんな、健気で、優しくて、ちょっと拙いところが可愛くて、うらやましくて、うらやましくて、うらやましくて泣いた。友達が体育倉庫から連れ出してくれるところとか、「しにたい」と初対面の人間に晒せるところとか、陰口を立ち聞きしてしまうところとか、思い浮かぶ具体名のあるところとか、顔が整っているところとかが、うらやましくて。

 終盤で感動的なBGMが流れると、合いの手のようにすすり泣く声があちこちから聞こえた。映画が終わって現実世界にピントを合わせながら伸びをしているとき、視界の端で、ロングヘアの茶髪を丁寧に内巻きにした子が、白いハンカチを握りしめながら、隣に立つ人を慎ましく見上げていた。

 帰宅の道すがら本屋で原作を買って、家で読んでもう一度ぼろぼろ泣きながら、これは自傷行為かもしれない、とか思った。自己陶酔特有の間抜けなにおいがして、自分を含む人類の全員が、誰も深刻に受け取らないところがそっくりだ。

 ヲタ恋は、バイトをやめた帰りに、乗り換えの新宿でおりて、開演5分前にチケットを買った。隣席の笑い声が大きくて、耳栓をしながら見た。

 斎藤工さんの顔から出るもん全部出てるシーンがおもしろすぎた。映画館特有の、葉擦れのような笑い声。

 終わってシアターを追い出されると、「やっぱ福田組だよね?」「漫画とは全然違ってさー、」「賀来賢人マジなんなのwww」しゃべり声が海のように私を包んで、入り口まで背泳ぎみたいに歩いた。
ピカデリーから押し流され出ると、水流はすぐに散り散りに消えて、新しい、もっと巨大な、新宿という海に合流する。ぴかぴか光る看板がおばけみたいに不気味で、深海生物を思わせた。海底なんて立派な比喩を与えるには、この街は少しやかましいけれど。

 土左衛門のようにしばらくふわふわと揺蕩って、なんとなく駅に向い始めた途中、客のいない薬局で、セザンヌのコンシーラーを試供しながら蹲って泣いた。女らしい見た目、とかいう何の意味もない概念を疑わず、無思考に髪を伸ばしていてよかった。俯いて、黒髪のカーテンの中で、クマを消してくれるらしいオレンジ色の液体を手の甲に擦りつけていれば、私の涙はこの世に存在していないのと同じだった。

 これまでの人生の中で、指折り数えるレベルでちょっと笑っちゃうくらい死にたい夜だった。

 こんな瞬間はどうせ、人類全員に、馬鹿みたいに等しく訪れる。何度もそう唱える。ずっとそうしているわけにもいかないので、山手線に乗って、歩いて帰った。

映画に縛られる2時間は自由はないが不安もない
   『ここは今から倫理です』1巻 / 雨瀬シオリ

 映画がクライマックスに差し掛かるとき、いつも、このまま地球に隕石が突っ込めばいいのにと願う。傍観者として許される時間が終わって、白黒はっきりしたスクリーンから、現実に放り出されるのが怖い。
 エンドロールを見ずに席を立つ人に憧れている。彼らは映画の逃避性に依存せず、フィクションやディレクションがどんな現実から生まれたものかも意に介さず、純粋に映像作品を享受しているのだろうか。それは、とっても高尚で信頼できる感性かもしれない。

追伸
 ネトフリに「映画忍たま乱太郎・忍術学園全員出動!の段」あるけどマジでめちゃくちゃウルトラミラクルおもしろかった、みんなもおもしろいと思うのか知りたい、見てください(エンドロール終わった瞬間に即リピして流れるように5000字の感想を書いた)。
 あとアマプラにあるおじゃる丸傑作選の「水たまりのむこうがわ」という話が圧倒的名作なのでこれもチェケラ。

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