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「頑張る」や「努力」について思うこと

ふわふわと思考を巡らせていたら、とても140字に収まらなくなってしまったので、こちらに書き留めておこうかなと思います。

頑張る、頑張れ、扱われ方の変遷

自分の幼い頃と今とでは、ずいぶん扱われ方が変化したなと思う言葉のひとつに「頑張る」や「頑張れ」があります。

それこそ、「頑張り屋さんね」というワードは幼少期の私にとってはこの上ないごほうびの言葉でしたし、決して「頑張り屋さん」から外れてはいけないという、この上ないプレッシャーのかかる言葉でもありました。似たような感覚を持ったことのある人は少なくないかもしれませんね。

私がただ幼かったからそう感じていただけかもしれませんが、その当時「頑張る」や「頑張れ」は、ポジティブな要素がもっと多分に含まれていて、もっとフランクに使いやすかった言葉のひとつだったように思うのです。

ふと気が付いたときには、誰かに対して「頑張って」と声を掛けることさえ慎重になるような空気で世間は満ちていて、これはあくまでも私個人の体感ですが、その感じというのは次第に増しているような気さえしています。

慎重になる、ということ自体はいいことだと思っています。特に、他者にかける言葉ならなおのこと。言葉って発したらもう取り戻せないじゃないですか。発言撤回と言ったって、言葉を発した事実が無かったことになるわけではないですものね。

まだまだ精神疾患への正しい理解や認識が遅れている日本とはいえ、それでも少しずつメンタルヘルスに対する関心は高まりを見せてきています。

たとえば、うつ状態の人に頑張れは禁句、などというフレーズは誰もが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。これは「頑張れ」という言葉が、彼らをさらに追い込んでしまうという理由によるものです。(ただ、個人的には一辺倒に「うつには頑張れ禁句」とすることの危うさも感じています、それは「慎重になる」とは真逆のことですからね)

このフレーズが市民権を獲得して以降(もしかしたら、東日本大震災のときに溢れた「頑張れ」「頑張ろう」の影響も大きかったかもしれませんね)、「頑張る」という言葉の取り扱いが大きく変化したなと感じています。

「頑張る」の言葉がもつ熱量にまで、自分の熱量を合わせていくことに疲弊してしまった、そんな時代の流れも相まって、かもしれません。

加えて、最近思うのは、「頑張れ」を非難や批判の意味として受け止める人がとても多いなということです。このことも、「頑張れ」が使われにくくなっている要因のひとつではないでしょうか。ストレス社会の象徴ともいえそうな現象だなと思ったりします。


「頑張れ」が批判めいて聞こえてしまうあなたへ

ずっと頑張ってきましたね、こんなにも余裕が無くなってしまうくらいに。

それなのに、「頑張れ」なんて言われたら、まだ頑張りが足りていないのか、まだ認めてもらえないのか、この上何を頑張ればいいのか、どこまで頑張ればいいのかと、やりきれない思いでいっぱいいっぱいにもなってしまいますよね。

気付いていますか。あなたがそう感じること自体が、もう十分に頑張ってきた証拠です。

他の人から認められないなら、それは頑張ったとは言わない?結果が出せていないなら、それも頑張ったとは言わない?

本当にそうでしょうか。

他の人から認められないことと、頑張っていないことは、本当にイコールの関係でしょうか。結果が出せないことと、頑張っていないことは、本当にイコールの関係でしょうか。

同じ境遇に置かれた他の人に対しても、同じことが言えますか。それがあなたの大切な人であったとしても…?

あなたの頑張りを誰よりも分かっているのは、あなた自身のはずなのです。たとえ人から認めてもらえなくても、結果が出せなくても、頑張った時間というものは無くなったりはしないのですよ。ちゃんとあなたは頑張ってきました。それは確かな事実です。

そして、もうひとつ。よかったら心の片隅に留めておいてもらえませんか。「頑張れ」という言葉は、決して非難や批判の意味で使われるばかりではないことを。

そこに込められた思いは、あなたを責めるものではなく、あなたの努力が報われるようにとの祈りかもしれません。あなたが望むものを手に入れられるようにと。あなたが悲しみ、悔やむことのないようにと。

それは、無条件の愛、ともいえるかもしれません。少なくとも私はそう思っています。


努力しても無駄、なのでしょうか

「努力は必ず実を結ぶ」とは思わないですが、「努力がまるで無意味」だとも思っていません。

なぜなら、努力とは「期待する結果を得る確率を上げるもの」だからです。

世界は理不尽で、不平等で、絶対なんてなくて。

努力が100%結果を導き出すとはやっぱり限らないわけです。

でも、努力によって結果を得る確率は上げることができます。一方で、努力しないなら、その確率は限りなくゼロに近づいてしまいますよね。

理不尽で、不平等で、絶対なんてないこの世界だからこそ、私はせめて自分で自分の機会損失だけはしたくないかなと思う、そんな今日この頃です。


さいごに

何も頑張らずに生きている人って、いるのでしょうか。

誰もが大なり小なり荷物を抱えながら日々を生きていると、私はそう思っています。

頑張ったかどうかの評価基準を、他者からの承認という外部に委ねることが決して悪いとは思いません(苦しいなとは思いますけどね)。

ただ、それよりも、他の誰が何と言おうと個人個人が「頑張れた」と思えることや、そんな努力ができるそのこと自体が大切なのではないかなと、ぼんやり考えたりします。

いつもいつも頑張れなくていいですし、いつもいつも頑張らなくてもいいんです。大丈夫ですからね。それぞれが、それぞれのペースで。

私たち、ここまで生きてきましたね。

他の誰が何と言おうと、私もあなたも頑張ってきたのですからね。

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