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かろやかでいい、きっと愛はもっと

そもそも個人の価値観なんて千差万別だと言われてしまえば身も蓋もないのですが、愛について考えるとき、これほどまでに人によって感じ方や捉え方、考え方が多様な心の動きってないなとよく思ったりします。

特定の人物に対して深い慈しみの感情を向けることこそが愛と考える人がいれば、人間愛という言葉に代表されるようにその対象が果てしなく広い場合もあるでしょう。何が正しくて、何が間違いだとか、そういうものさえも超えていくような包容力が愛には備わっているという気もします。

愛というワードと紐づけられている私の記憶について、ひとつだけ。

中学生の頃、部活動の顧問に何気なく言われた「あなたは博愛主義だから」という言葉が忘れられなくて、以来、自分の行動がその言葉に影響されているかのような、ぎこちない感覚が続いた時期がありました。

それは例えば、人のために行動するのは自分の純粋な意思なのか、博愛主義であることを暗に求められているからなのか、あるいは単にいい人と評価されたいからではないかとか、ことあるごとにそんなことを考えては、だらだらと答えを見い出せないままで、さながら呪いみたいだなと当時はよく思っていたものです。

が、大人になってからはっとしたのですよね。あの言葉は呪いなどではなく、真っ直ぐな愛であり、柔らかな祈りだったのだろうと。あんなにも重荷のように感じていたものこそが、実は自分の基礎部分だったのかもしれないと。

ずっとずっと思い込んでいたのです。愛は、自分みたいな人間が扱っていいものではない、もっと高尚なもののように。

でも、愛にはいろんな形があって、濃度があって、深さがあって、温度があって、重さがあるのですよね。そして、その源は自分自身にあります。どう使うかも自分次第です。

そのことに改めて気づいたとき、とても豊かで自由なものを手にした感じがしました。私が愛したいから愛する。すべてはこれに帰結するのだと。

ですから、その愛は受け取ってもらってもいいし、受け取ってもらえなくてもいいのです。受け取ったからといって、何かを返してほしいとも思いません。だって、私が愛したいから、ただそれだけですし、見返りを求めてしまった途端に、愛を使う側から愛に使われる側になってしまうので。

今日がいい日になりますようにと同僚に声を掛けること、体調を崩していないかなと旧友に思いを馳せること、電車内で目が合った赤ちゃんに微笑みかけること、配達員さんにお疲れさまですとねぎらうこと……

人のために想うという、それくらいのかろやかさで愛は誰に渡してもいいと思うのです。なぜなら、誰もが愛されるべき存在なのですから。もちろん、ここまで読んでくださったあなたも、ですよ。

殺伐とした世の中だからこそ、かろやかな愛を惜しみなく振る舞っていきたいなと、そんなことを思う今日この頃です。


ちなみに……顧問の先生とは卒業後もいろいろとお世話になり、今も連絡を取り合う関係性です。大切な恩師に敬意と感謝を込めて。

いただいたサポートは、もなか&ししゃものちゅーる代として、大切に大切に使わせていただきます(=^・^=)