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【越後平野の四本柱火葬場・4】長岡市(旧中之島町)長呂の火葬場跡

越後平野の四本柱火葬場、第4回は長岡市(旧中之島町)長呂(ながろ)の火葬場跡です。
2024年(令和6)2月10日。横山の火葬場跡を訪問した後に、寺泊町軽井(てらどまり・まちかるい)を訪問するために自動車を走らせていました。信濃川沿いの道路を走りながら、右手に広がる旧中之島町の平野を何の気なしに見ると・・・・田んぼの真ん中にある集落墓地の片隅に四本柱が見えました。
「あ・・・・ここにも四本柱の火葬場が・・・・」。ついさっき訪れた横山火葬場跡からは、1.5㎞ほどしか離れていません。
それが、この長呂の火葬場跡でした。

長岡市(旧中之島町)長呂の火葬場跡

いったん寺泊町軽井を訪問してから、長呂の火葬場跡を訪問しました。

旧中之島町長呂の火葬場跡

集落墓地の左隅(西側)に四本柱が見えます。
遠くに見える双耳峰が弥彦山(やひこやま)です。麓には越後一の宮の弥彦神社があります。その右側が角田山(かくだやま)です。弥彦山の左側には、背後の弥彦山にとけこんではっきりとは見えませんが、良寛さんが住んだ国上山(かくだやま)があります。
弥彦山・国上山・角田山の向こうは、もう日本海です。

長呂の火葬場跡

少し近寄って火葬場跡を撮影しました。

長呂の火葬場跡 左側(東側)から

火葬場跡の左側面(東側)からの撮影です。四本柱火葬場は必ず北入りになるように作られているので、画像の右側が正面になります。
手前の小さな小屋には、石地蔵が祀られています。

火葬場脇の石地蔵

長い間、故人の火葬を見守ってきた石地蔵です。しおれかかっていますが花が手向けられています。
画像上部の白い光球はオーブ(orb)ではありません。レンズ内に入り込んだほこりです。少し暗い画像に写り込んでしまうのでちょっと困っています。

長呂の火葬場跡 左側=東側の側面から

火葬場左側=東側の側面からの撮影です。火葬場正面は画面の右側=北側になります。
正面左側の柱が失われています。棺台もありません。

長呂の火葬場跡 正面(北側)やや左寄りから
長呂の火葬場跡 正面(北側)やや右寄りから

家に帰ってから気付いたのですが、正面=北側からの写真を撮り忘れていました。
見附市今町の火葬場跡と同じように、火葬場中央=焼き場のあたりが少しくぼんでいます。
向こうに見えるのが、長呂の集落です。

長呂の火葬場跡 全景

火葬場跡のすぐ近くには、さっき訪れた横山の火葬場跡と同じように、小さな墓石がぽつんとありました。
墓石の脇に枯れた花や折れた枝などが捨てられていました。墓地のごみ捨て場なのでしょうか。枯れた花などに混じって、コンクリートの円柱の破片も捨てられていました。四本柱のうちの失われた一本のかけらかも知れません。

長呂の集落

火葬場の左脇=東側の側面から見た長呂の集落。長呂の集落は、火葬場の南東の方角に位置します。
長呂の火葬場跡は、もとの形はだいぶ失われていますが、風雪に耐えて残っているという印象です。火葬場脇の石地蔵に花が手向けられているところをみると、撤去まではしないが、時の過ぎゆくのに委ねられているという感じです。
<2024年(令和6)2月10日 訪問>

火葬場跡の位置関係

前にも記しましたが、長呂の火葬場は横山の火葬場から1.5㎞ほどしか離れていません。新潟県は集落ごとに火葬場があったことを裏付ける遺跡です。
横山火葬場跡の記事でも書きましたが、昔の葬送儀礼を偲ばせる貴重な遺産と思うので、国指定とまでは行かなくても『越後平野の葬送遺産』として新潟県や長岡市の史跡指定が出来ないものかと思ったりします。

私が確認している越後平野の四本柱火葬場4つのうち、3つまでを紹介しました。残る1つの旧越路町中沢の四本柱火葬場跡は未訪問なので後日の紹介になります。
次回は今回の2月の3連休の火葬場訪問の流れで訪れた、三条市(旧栄町)新堀の火葬場跡を紹介します。
こちらは四本柱火葬場の跡ではなく、以前に建物が存在した火葬場の跡です。時代的には、四本柱火葬場の次の時代の火葬場になります。

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