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【越後平野の四本柱火葬場・3】長岡市(旧中之島町)横山の火葬場跡

越後平野の四本柱火葬場の第3回。今回は、長岡市(旧中之島町)横山の四本柱火葬場跡です。こちらの火葬場跡も、「四本柱」さんから教えていただきました。
保存状態はかなり良好で、見応えある火葬場跡です。

旧中之島町概要

旧中之島町は1889年(明治22)に中之島村として誕生し、1986年(昭和61)の町制移行を経て、2005年(平成17)4月1日に長岡市に編入されました。
信濃川右岸に位置し、町内はほぼ平地です。隣接する見附市今町とは、市街地が続いています。稲作とレンコン栽培が盛んです。
2004年(平成16)の7.13水害では、見附市との境界をなしている刈谷田川が決壊し、大きな被害が出ました。

横山火葬場跡

横山地区の集落センターの前から細い道が北に向かって伸びています。その道を直進すると、右手に横山の集落墓地があり、その敷地の北端に四本柱の火葬場跡があります。集落墓地併設型の火葬場です。

横山の集落墓地 火葬場跡は画面左の奥
横山火葬場跡 右手(西方向)から
横山火葬場跡 正面右(北西)側から

訪れた日は前日夜までの雪混じりの雨が上がり、快晴でした。ただ、火葬場正面からは逆光になるため、写りのよくない画像もあります。

横山火葬場 正面左(北東)側から

棺台、中央の焼き場がみごとに残っています。
四本柱の先端は、尖っています。寺泊町北曽根火葬場と見附市今町火葬場は、先端近くに針金が結びつけられていました。
四本柱火葬場は、遺体を焼くときに柱の上に筵(むしろ)や菰(こも)、藁束をかぶせて、焼く作業を太陽から見えないようにしていたそうです。尖った先端も針金が結びつけられている先端も、筵や菰、藁束をかぶせやすくするための工夫なのでしょう。

棺台

棺台はていねいな造りです。
棺台の置かれている場所が火葬場の正面で、四本柱・焼き場の北側に置かれています。これは四本柱火葬場に共通した造りです。

焼き場

四本柱の中央には、焼き場が残っています。火葬場の左側からの画像で、画像の右側が棺台の設置されている側になります。
四本の太い鉄棒の下には、煉瓦とコンクリート造りの長方形の基礎があります。

火葬場後ろ側(南東側)から
火葬場後ろ側(南西側)から
火葬場正面(北側)から 向こうが横山の集落

火葬場正面(北側)からの画像の、墓地の向こうに見えるのが横山の集落です。
北曽根火葬場と今町火葬場は、火葬を見守るような位置に石仏や六地蔵がありましたが、横山火葬場にはありません。石仏、六地蔵は集落墓地の入り口に設置されていました。

横山火葬場跡 進入路から

進入路からの火葬場全景です。
進入路は西から東に向かって作られており、北入りで火葬場に入ります。火葬場が北入りになっているのも。四本柱火葬場に共通した造りです。
進入路脇にある小さなお墓が、少しもの悲しい雰囲気をかもしています。どうしてこのお墓は、進入路の脇、田んぼに落ちてしまいそうな位置にあるのでしょう。この小さなお墓に葬られている人の人生をふと考えました。

集落墓地入り口から望む横山の集落

前に記しましたが、石仏と六地蔵は墓地の入り口にありますが、写真を撮り忘れてしまいました。
小さな小さな集落墓地に併設されている火葬場跡ですが、遺構の保存状態も良好で、とても美しい火葬場跡でした。
このまま、ずっといつまでも残っていてほしいと思います。
また、貴重な葬祭遺跡として、行政によって保存に向けた措置がとれないものだろうかとも思います。
<2024年(令和6)2月10日 訪問>

旧中之島町、見附市、旧栄町の火葬場跡の位置関係

横山火葬場跡は、2024年(令和6)2月10日に訪問しました。
この後、旧寺泊町北曽根火葬場跡で紹介した民話「きつねと鱈」の採話地である寺泊・町軽井の様子を撮影しようと寺泊方面に向かう途中、横山集落から1.5㎞ほどしか離れていない長呂(ながろ)という集落の墓地に、四本柱火葬場が残っていることを偶然発見しました。
次回の第4回訪問記で、旧中之島町長呂の火葬場跡を紹介いたします。


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