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【鳥取県東部(因幡)の火葬場訪問・2】智頭町本折の集落火葬場跡

鳥取県東部の山あいの町・智頭町の中心部近くにある本折(もとおり)という集落にある集落火葬場跡を訪問しました。
この火葬場も、さいば萌さんのYoutube動画で訪問、紹介されています。
【鳥取東部】智頭町営火葬場と集落向け野焼き場 - YouTube
智頭町の概要については、前項の「【鳥取県東部(因幡)の火葬場訪問・1】智頭町営火葬場跡|Yuniko note」をご覧ください。

智頭町本折の集落火葬場跡

実は私、さいば萌さんの動画を視聴するまで本折という集落を知らず、当然火葬場跡の存在も知りませんでした。動画を拝見して「ぜひ訪問してみたい」と思い、今回の鳥取行きの際に訪れた次第です。
さいば萌さんの動画には、火葬場跡へのアクセスも紹介されていたので、あらかじめストリート・ビューで行き方を何度も確認して出かけました。それでも、集落への道路の入り口が分かりづらく、何度も入り口を間違え、崖崩れ危機の危ない道路を登っていたり、脱輪しそうな超細い道を運転したりしていました。

火葬場跡への石段
何段あるのかは数え忘れました。

石段を上りきったところがちょっとした広場になっていて、葬祭施設としか思えない遺構が残っていました。

本折の集落火葬場跡 全景

右側奥の低木が生えているところが火葬炉の跡。さいば萌さんが訪問されたときは、崩れそうになりながらも鉄骨の四本柱と屋根が残っていましたが、今は撤去されています。
火葬炉のすぐ手前には、棺台?供物台?引導台?なんと呼ぶのか分からないけど、保存状態のよい昔の火葬場跡ではほぼ必ず見かける石で造られた台があります。
そのとなりに白御影石で作られた新しそうな墓誌(お墓の由来を記した記録)。「南無阿弥陀仏」の六字名号碑。コンクリート製の残骨入れ。3つが並んでいます。
左手前にブロックで作られた何かの施設がありました。

火葬炉

火葬炉は、あとで紹介されている墓誌に記されていますが、昭和40年代の築造です。煉瓦造り(一部ブロック積み)の立派な火葬炉です。低木が生え、夏草が茂っている中央部分には棺を置いたとみられるほぼ正方形の穴があります。
前にも書きましたが、以前は四隅に鉄骨の柱を立て、上部が屋根で覆われていました。

棺台? 供物台? 引導台?

火葬炉のすぐ前にある棺台?供物台?引導台?切石ではありませんが、平らな自然石を積んだらしい素朴な台です。

棺台(仮)と火葬炉


右から 墓誌、六字名号碑、残骨入れ

火葬炉の左となりには、石垣が造られ、墓誌・六字名号碑・残骨入れが並んでいました。

墓誌

白御影石で造られたきれいな墓誌は、さいば萌さんが訪れたときの映像には映っていませんでした。さいば萌さんがここを訪問されたあとに設置されたのでしょう。令和3年4月にこの碑が建立されたことが記されています。ちなみに、六字名号碑と残骨入れを囲んでいる柵も、さいば萌さんが訪問した際には設置されていなかったようです。墓誌と一緒に設置されたのでしょう。
墓誌にはこの集落の墓制とこの火葬場の来歴がくわしく記されており、長くなりますが、とても貴重な資料なので、ここに全文を掲載します。

「本折集落総合墓地修繕事業記念の碑」
「浄土真宗の墓制」
本谷の本折は以前は村の全戸が門徒であった。その中の1.2戸が多少早くから石塔を建てていたようであるが多くの家が墓地を持ち石塔を建て始めたのは、昭和47年(1972年)に村で「堂仏谷」に「堂仏墓園」を造成して以来である。以前は村の背後の山の中にある焼き場で火葬し、一部の骨は旦那寺や京都の本山に納めたがその他は焼き場に掘ってある大きな穴に投げ込んだという、いわゆる無墓制が行われていた。(智頭町民誌下巻648ページより抜粋)と記述されており、昭和40年代の整備の際に鉄骨製屋根を用いた耐火煉瓦製「野焼き場」、円柱コンクリート製の「残骨入れ」へと姿を変え、墓地へと続く階段も現在の姿になったとされるが「石塔」については創建当初、慶応3年(1867年)のままである。それより以前の記録は定かでないもの、100年以上の永きに渡り、故人を偲び見送ってきた「本折集落総合墓地」の「歴史は絆」が後世へ残るよう 令和3年4月 修復事業を竣工した その記念として碑を建立する。
                             本折常会

すばらしい!こういう記録を、しかも紙ではなく石碑として現地に残してくれたおかげで、地域の葬祭文化が未来に向けて伝わっていきます。
この墓誌によって、下記のような点が一訪問者である私のような者にも分かりました。

〇この集落火葬場が造られたのは昭和40年代(1965年~1974年)であること。
〇それ以前は、「山の中にある焼き場」で火葬にしていたこと。
〇石塔が造られた慶応3年頃は、すでに「山の中にある焼き場」で火葬にしていたこと。

一方、新たな疑問も浮かびます。

◆それでは、「山の中にある焼き場」とはどこにあったのか。この地に慶応3年創建の六字名号碑が残っていることから、この火葬場跡が「山の中にある焼き場」の可能性もありますし、六字名号碑は昔の焼き場から移築されてきた可能性もあるので、こことは違う場所かもしれません。
◆「焼き場に掘ってある大きな穴」はどこにあったのか。ここが「山の中にある焼き場」なら、この敷地のどこかに残骨を投げ込んだ「大きな穴」があったはずです。

それにしても、昭和40年代になっても集落の野焼き場で火葬が行われていたことは、ちょっと驚きです。

慶応3年(1867年)創建の六字名号碑
残骨入れ 火葬炉と同じく昭和40年代の築造です
火葬場入り口左手にあるブロック造りの遺構
墓碑にはこの遺構についての記述はありませんでした
火葬場入り口左手にあるブロック造りの遺構
よく見ると、火葬場跡を囲むように石垣で区画され、その上には平地が・・・・

ブロック造りの遺構の上の段が、ちょっとした平地になっています。さらによく見ると、その左手にも一段高く平地があります。

右側(石垣の上)に平地 左側にもさらに一段高く平地
石垣の上が右側の平地
右側の平地 特に気になる遺構はありませんでした
右側平地の一段高いところにある左側の平地
石垣で囲われているなどの遺構はありませんでしたが、平地に上がってみると・・・・
左側の平地
約2m四方の石で区画された遺構があり、その上にも崩れた石が積み重なっています
ここも何らかの葬祭施設の遺構に感じられます

右側の平地には特に遺構は見当たらなかったのですが、左上の一段高い平地には石で区画された2m四方くらいの遺構があり、その上には石が積み重なっています。石造りの何かの遺構があり、その崩れた石を積み重ねているという感じです。大きさや形状から、お堂のような施設があったように推測しますが、真実はいずこに?

集落火葬場跡の調査を終わり、現地をあとにしましたが、火葬場への石段の脇に石垣とブロックの垣が造られ、格式の高さを演出しています。

火葬場入り口脇の石垣(とブロック垣)
火葬場への登り口 石垣とブロック垣で補強されています

石段を降りてから気付いたのですが、登り口にも石が積み重なっています。格式の高さを演出する石造りの装飾かなとも思ったのですが、よく見ると中央部が細い石段のようになっています。その細い石段を上がってみると・・・・

火葬場への登り口右脇の石組み
たしかに中央部に細い石段があります
登り口脇の石組みの上にある平地

登り口脇の石組みの中央部にある細い石段を上がると、そこも平地になっていました。遺構は確認できませんでしたが、ここも何かの葬祭施設があったような雰囲気が感じられました。

地域の人に大切に守られてきた葬祭施設

訪れた季節が夏真っ盛りの時期だったのですが、夏草が繁茂している状態ではなく、火葬場が使われなくなった今も地域の人に手入れされている様子が伺えました。
特に、地域の墓制と火葬場の来歴を記した墓誌が建立されているのは、資料的価値があり、貴重な火葬場跡だと思います。
<2024年8月3日訪問>

本折の集落火葬場跡の場所

次回予告 八頭町船岡新庄の集落火葬場跡

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