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知られざる戦国武将・武田高信の墓-伝説が秘める因幡の戦国時代・3-

戦国時代末期、鳥取城を拠点に因幡国を席巻し、その後非業の死を遂げた知られざる戦国武将・武田高信の墓を訪ねました。
武田姓をもつ戦国武将といえば、何といっても武田信玄。そしてその息子の武田勝頼が有名です。
「武田高信」と聞いても、「誰それ?」というくらいの知名度でしょう。「戦国武将事典」「戦国時代人物事典」などのきちんとした本にも、ほとんど載っていません。地元の鳥取県東部でもまったくと言ってよいほどの無名の人物です。
ですが、因幡国の戦国時代においては、はずすことのできない重要人物です。

武田高信・1

武田高信は、因幡守護・山名氏の客将として重く用いられた武田氏の一族です。伝承によれば、若狭国(福井県西部)守護・武田氏の末裔で、甲斐国の戦国大名として有名な武田信玄や武田勝頼と同族です。
高信の父・国信は鳥取城の城番を務め、一国制覇の野望を秘めて鳥取城を堅城化しましたが、かえって野心を疑われて、山名氏に謀殺されたと伝えられています。
父の跡を継いだ高信は因幡国の国人領主たちと謀って、守護・山名氏への叛意を露わにしました。高信は安芸国の毛利元就と結んで山名氏と争い、1563年(永禄6)には守護・山名豊数を居城の布勢天神山城から放逐しています。
その後は安芸毛利氏の忠実な手兵として各地を転戦しました。
1570年(元亀元)足利義昭を奉じて上洛した織田信長が全国の有力大名に「将軍への奉公」を要請した際、因幡からは武田高信が奉公を命じられています。当時の実質的な天下人だった織田信長も「因幡国の主は武田高信」と認識していたことが分かります。高信はこれに応えて、自身の名代を京に上らせています。この頃が武田高信の絶頂期でした。

鳥取城
画像の擬宝珠橋と中の御門は江戸時代の建造物の復元
石垣はほぼ江戸時代のもの

武田高信・2

毛利元就の命に従って各地を転戦しつつ、高信は因幡の国人領主の掌握に苦しんだようです。因幡の国人たちは緩い支配ではあったものの、元々は守護・山名氏に属しており、自らの安全と権益の確保のためには主を変えることも厭わない状況でした。
高信は1569年(永禄9)頃から、国人たちから居城の鳥取城を攻撃されるようになります。さらに、毛利氏によって居城の富田月山城を追われた尼子一族が、失地回復を狙って但馬守護・山名祐豊と因幡守護・山名豊国と結び、因幡国に侵入してきます。
1573年(天正元)、高信は尼子党と戦って敗れ、鳥取城に籠もります。これを見た因幡の国人衆も雪崩を打って尼子党に属し、鳥取城を攻撃しました。
高信はついに鳥取城を開城し、因幡武田氏の元の本拠・鵯尾城に退去しました。
鳥取城には尼子氏と結んでいた因幡守護・山名豊国が入りました。

高信の落日

ところが吉川元春率いる毛利軍が大挙して因幡に侵入。尼子党は因幡を追われました。山名豊国はひとたまりもなく毛利氏に服属し、ついで惣領家の但馬山名氏も毛利氏に属します。
すっかり勢力が衰えた高信は、かつて因幡の覇権を争った山名氏とともに毛利氏に属することになり、微妙な立場になりました。
当時の一次史料(同時代の書状、日記等の信頼おける史料)によると、山名豊国と山名祐豊が毛利氏に対して再三にわたって武田高信の排除を求めており、高信は毛利氏に繰り返し助命嘆願をしています。しかし、高信の助命嘆願に対して、毛利氏は言葉を濁しています。
毛利氏にとっては、因幡国を安定させるためには、尾羽打ち枯らした武田高信よりも、衰えたりとはいえ旧守護・山名氏の威光を利用した方が得策と判断したのでしょう。
毛利氏に見捨てられた高信は、その後、山名豊国によって鵯尾城も追われています。

武田高信の非業の死とその影響

発出年は記されていないのですが、1576年と推測される5月4日付の小早川隆景の書状に「(武田高信は)不慮に相果て候(後略)」と記されています。
隆景はこの書状の中で「(高信の死によって因幡は)大混乱に陥るだろう」と記していますが、これ以後、備前国の宇喜多直家と伯耆国の南条元続が毛利氏を離れて織田氏と通じ、やがて毛利氏と織田氏の全面戦争ー上月城の合戦、但馬平定戦、鳥取城の渇え殺し、備中高松城の水攻めへと繋がっていくのです。
宇喜多氏と南条氏が毛利氏を離れた理由は、もちろん織田氏の(おもに羽柴秀吉の)巧みな調略が第一の理由ですが、忠実な毛利の手兵だった武田高信への冷たい仕打ちも理由の一つだったのかもしれません。

因幡山名氏と武田高信の栄枯盛衰は、こちらの記事にも述べています。
1.幽霊薬-伝説が秘める因幡の戦国時代・1-|Yuniko note
2.立見峠の怨霊-伝説が秘める因幡の戦国時代・2-|Yuniko note
1→2→本記事と順番に呼んでいただければ、因幡国の戦国時代の概略がたどれるのではと思います。

因幡民談記が伝える武田高信の死

高信が死しておよそ100年後、江戸中期に記された『因幡民談記』に、武田高信の死が記されています。
"鳥取城を追われた武田高信は鵯尾城に隠棲していたが、高信の叛意を警戒した山名豊国は「美作国の草刈氏を討つ」と称して、軍議にこと寄せて散岐(さぬき)の大義寺に高信一党を招き、斬殺した"
従来はこれが定説とされていましたが、高信の死の真相については未だに不明な点が多いです。

大義寺 武田高信の墓

武田高信が謀殺されたと伝わる鳥取市河原町佐貫の大義寺に、武田高信と家臣の墓とされる五輪塔があります。

大義寺の山門
大義寺 本堂

高信の墓は本堂の右手、少し離れたところにあります。

伝・武田高信の墓
中央の五輪塔が高信の墓 左右の計4基は家臣の墓と伝わる
高信の墓のとなりに並ぶ五輪塔群
圃場整備に伴って周辺の五輪塔を集めたもの

一時期は因幡国の大半を手中に収め、中央政権の織田信長から認められながらも、結局、旧守護・山名氏に勝てなかった武田高信。
戦国大名としてこの時代を生き抜く難しさと同時に、今に名を残す戦国大名たちは武力にも謀略にも長けるとともに、多くの家臣や同盟者を心服させるだけの知謀、教養、政治力を備えていただろうことが伺えます。

大義寺 武田高信の墓の場所


<参考資料>
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県歴史散歩研究会 山川出版社 1994年3月25日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年12月5日発行
・因伯の戦国城郭 通史編 著:高橋正弘 自費出版 1986年12月15日発行
・山陰戦国史の諸問題 著:高橋正弘 自費出版 1993年1月31日発行

次回予告 金崎土手の人柱

以前に紹介した勘右衛門土手。このすぐ近くにも人柱伝説が伝わる場所がありました。

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