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【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・1】桜の苑と旧米子市火葬場

前回、8月に鳥取に帰省した際は、鳥取県東部(江戸時代までの因幡国)の斎場&火葬場跡を訪問しました。今回は、鳥取県中西部(江戸時代の伯耆国)の斎場&火葬場跡を訪問します。
 〇桜の苑(米子市)
 〇琴浦町営斎場(琴浦町)
 △旧東伯火葬場跡(琴浦町)
 〇鳥取中部ふるさと斎苑(倉吉市)
 △摩瑠山斎場跡(倉吉市)
あわせて、斎場&火葬場跡ではないのですが、鳥取県の大山周辺に残る両墓制の埋め墓を紹介します。
 ・大山周辺の両墓制・1-大山町鈩戸の埋め墓-
 ・大山周辺の両墓制・2-大山町樋口の埋め墓-
 ・大山周辺の両墓制・3-江府町福岡の埋め墓-

はじめは、米子市の現役斎場である「桜の苑」を紹介します。

米子市について

米子市は人口144,121人(2024年8月1日現在)。
弓ヶ浜半島の付け根にあたり、日本海と中海に面しています。因幡(鳥取)方面、出雲(安来、松江)方面、美作(岡山北部)方面、備後(広島西部)方面への交通路の結節点にあたり、海運の要地でもありました。
安土桃山時代に吉川広家によって米子城が築かれ、江戸時代は鳥取藩が治めました。
江戸時代から商業都市として発展し、「山陰の大阪」「山陰の商都」と呼ばれています。

桜の苑・1

米子市の現役火葬場である「桜の苑」は、米子市長砂町にあり、山陰自動車道の米子南ICのすぐ近くです。昭和37年(1962年)に旧火葬場からこちらへ移転したのだそうです。
それでは・・・・米子の旧火葬場はどこにあったのかを検索してみると、案外簡単に見つかりました。「米子歴史浪漫プロジェクト」と「山陰百貨店-日常を観光する-」というHPにかなりくわしく記載されていました。
米子市郊外の「立松北公園」が、昔の火葬場の跡地ということです。
実はこれが分かったのは、新潟に帰ってきて、桜の苑について調べているときでした。残念!鳥取に帰省する前に調べていれば、絶対にここを訪問したのに!

米子市の旧火葬場について

くやしいので、調べて分かった米子市の旧火葬場について記します。
米子市の旧火葬場は、大正12年(1923年)11月に市営火葬場として建てられました。その頃はあたりは砂山でした。明治期に鳥取県全域でコレラが流行した際、コレラの犠牲者をここらで火葬にしたので「コレラ山」と呼ばれていたそうです。
火葬炉5基のほかに各種の設備もあり、煉瓦造りの煙突がとても美しかったということです。
戦後、火葬場周辺が急速に宅地化したので、現在地に移転したということです。
返す返すも残念!次回訪問したときは、必ず米子市旧火葬場跡を訪問し、画像も撮影してきます。
☆この項を記すにあたり、「米子歴史浪漫プロジェクト」と「山陰百貨店-日常を観光する-」を参考にさせていただきました。編著者の方、ありがとうございました。

桜の苑・2

「桜の苑」は昭和37年(1962年)に現在地に移転したそうですが、画像を見て分かるとおり、モダンな感じの斎場です。この建物が完成する以前には、別の建物があったのでしょう。
推測すると、通称「コレラ山」にあった元の火葬場から通算すると、「桜の苑」は3代目の米子市の火葬場?

桜の苑 入り口
桜の苑 建物全景
南方向から
桜の苑
東側の建物 こちらが火葬棟か
桜の苑 エントランス
この日は朝から葬儀が予定されており、すでに職員も出勤しており、台車も出されていました
桜の苑 待合棟か
桜の苑 建物全景
西方向から
桜の苑 待合棟か

米子市周辺の現役斎場はこの桜の苑だけです。鳥取県西部のほぼ全域を桜の苑でカバーしています。
米子市に隣接する境港市は、隣県松江市の斎場で火葬にしているということです。

ここを訪問したのは朝の7時30分頃でした。
8月に鳥取市の因幡霊場を訪問したときと同じように北側(海側)からそよ風が吹いていましたが、風に乗ってあのにおいがかすかに・・・・
朝早いうちに現役の火葬場を訪問すると、あのにおいが漂ってくるのかもしれません。

桜の苑と米子市旧火葬場の位置

桜の苑と米子市旧火葬場の位置は、上の地図のとおりです。

<2024年9月14日訪問>

<参考資料>
・米子歴史浪漫プロジェクト 米子歴史浪漫プロジェクト (ydpro.net)
・山陰百貨店-日常を観光する- 【公園図鑑】 立松北公園 【米子市米原】    【公園図鑑】 立町北公園 【米子市米原】 | 山陰百貨店―日常を観光する― (ameblo.jp)

次回予告 【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・2】 琴浦町営斎場

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