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肩書きのないフリーランス・育成世代

自分は、肩書きもない・技術もないフリーランスだと思われる。これだけ書くと、時代に逆行しているのか順応しているのかよくわからない状態である。

フリーランスが将来的に増えるかもしれないなーとなんとなく思っているのだが、それは自分のただの願望なのかもしれない。仲間が増えると、心の余裕ができることも人間の確かな質である。同じグループに仲間がいると安心したいという欲求は群をなす人間という生物の性であり、人数の少ない集落で過ごすことは不安を感じざるを得ないのだ。

人間は、自然界の中で生物という枠組み中の人間という単位で小さな群を形成する。猿・鳥・象・人間などという種類の違いがあり、それを認識して人間の群を作った。そして、小さな群れを拡大することにより、社会を形成した。

しかし、社会の中では猿・鳥・象・人間などの種類ではなく、人間の中で種類別される。わかりやすくいうと、生物学的な男女、お金持ちと貧乏、社長と社員、社員とフリーランスなど。この種類別で群を形成すると、大きな群れを成す種類は力を持ってくる。その力はその種類に分類される個人に大きな安心感を与えるのだ。だから、フリーランスという群れが大きくなっていくことを自分は望んでいるのだろう。

自分世代の若者も、一気にフリーランスになる人は少ない。一旦会社に入り、肩書きを得てフリーランスを目指している人は多いのかもしれない。しかし、元〇〇社という肩書きも得られず、元〇〇団体所属でもなく、わかりやすい特筆した能力を持っているわけでもない人間が、一気にフリーランスになることはほとんどないと思う。

ここで一つ言いたいのは、作家・俳優などの職業の人がフリーランスになることを指しているのではなく(事務所に所属しているなどはフリーランスなのか否かは一旦置いといて)制作などの何となく仕事っぽい仕事を自分が行っている時に「肩書きのないフリーランス」を痛感するのだ。(ここで仕事っぽい仕事という表現に、おそらく自分の中の作家・俳優という仕事に対して少し穿った見方をしていることは表出している。そのことは戒めとしても記しておきたい)

ということで「肩書きのないフリーランス」として闘っているのだが。その上で自分の闘い方は「若さ」を前面に出した方法であるとしか言えない。

自分でも至らない部分や、経験として足りない部分が多いことは各所で感じるし、そのことに焦って全力で得ようとしている自覚はある。しかしそういうものは、時間が経たないと得られないものも存在する。(一方得られるものもあるからめんどくさい。その選別ができないから。。。)

なので、「肩書きのないフリーランス」であり「育成世代」である自分は、なにか将来的にありそうという「若さ」を前面に頑張るのだが。そこで仕事を得られたりする理由は、自分の明らかな実力ではなく、将来的に何かありそうという不明瞭で明確に存在しない期待値に他ならない。

自分で言ってても、そんなものにお金をもらっていることに恐怖を感じている。なので、「肩書きのないフリーランス」「育成世代」は、その恐怖を打ち消すために、「肩書き」を得るために、「育成世代」から脱却するために、ひたむきに進むしかない。

晴れ 35度

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