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「私の中の、こどもの私」2022年9月10日

絵を描いている。

朝はお昼前くらいに起きて、それから朝(昼?)ごはんを食べたり、おやつを作って食べたり、前日に書いた絵の写真を外が明るいうちに撮っておいたりする。

お腹が空いたら、昼(夜?)ごはんを食べて、だいたい夜になったらまた絵を描く。

それでまたお腹が空いたら、夜ごはん(夜食?)を食べたりして、運動してプロテインを飲んだりして(引きこもり生活の健康のためのせめてもの義務)、絵を描くことの気が済んだら寝る。

この頃は、そんな毎日を送っている。


絵を描くときには、音楽を聴いていることが多い。
最初は聴いていなかったのだけど、最近はけっこう聴くようになった。

絵を描くことと、音楽を聴くことは、相性がいい。

文章を書いているときは、特に言葉の乗った音楽(歌)はどうしても思考に干渉してしまうので、無音でやる(この文章を書いている今も無音だ)けど、私は音楽が好きなのでほんとうはもっと音楽を聴いていたい。

だから、音楽を聴ける(おまけにインスピレーションもわく)のは、絵を描くことの良いところだなあ、と思う。


ところで、「上手い、下手」ということについて前回もほんの少しだけ書いたけれど、私は「うまくやる」ということになんだか少し抵抗がある。
それは、「うまくやらなきゃダメだ」とずっと思い込んでいたからかもしれない。

生まれながらのわたしの性格と、育つ過程での環境の両軸によるものだと思うけど、とにかくわたしは他人からの評価に恐怖を抱いているのだ。

自分のことを、自分が表現したもののことを、「下手」とか「へん」だとか、「期待はずれだなぁ」と思われるかもしれないと思うと、脳がキュウっと萎縮してしまうのを感じる。

だから、何かをつくるのは好きだけど、とにかく何かすでにあるもの(そして他者から良い評価を受けているもの)を模倣して、それが客観的に見て及第点だなと思えるときだけ人に見せるのだった。

ほんとうは、ないものをつくり出す、という人たちに強い憧れを感じていたけど、恐怖が脳を萎縮させるから私には何もできない。

何もできないままに、その感覚は嫉妬のような重みを持つこともしばしばあった。あった、と過去形にしてみたけれど、今もたまに感じることはある。


とはいえ今、絵を描き始めたら、「ああ、つくるってこういう気持ちなのか」ということが私なりにわかるようになった。
他人からの見え方なんてどうでもよくて、それも含めてただうれしい。

でも、少し間違えるとまた恐怖が顔を出してきてしまいそうだから、そうならないような方法で、できるだけ長く絵を続けてみたいと思っている。

ちなみに、描いている絵はこちらのinstagramアカウントに載せていくことにしました。

はじめてクレヨンを握った、子どもの気持ちで、縦横無尽に画面を駆けめぐるのだ!


かや

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