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②律令国家の形成3-1

3.平城京の時代

遣唐使

7世紀から8世紀にかけて、中国ではの帝国が広大な領域を誇り、西アジアなどとの交流によって国際色豊かな文化を発展させていた。東アジアの諸国はそれぞれと通交し、その結果、東アジアの広い地域が、を中心とする共通の文化圏を形成するようになった。
朝廷は、8世紀に入ると、ほぼ20年に1度の回数で、大規模な遣唐使を派遣した❶。

❶遣唐使は、普通4隻の船に分乗したので「よつのふね」とも言われた。一行は100人から250人くらいで、多い時は500人に及ぶ大規模なものもあった。

遣唐使の渡航は、航海や造船の技術が未熟な上、大海を横断する航路をとったこともあって、極めて危険であった❷。

阿倍仲麻呂藤原清河のように、帰国できず唐朝に使えって一生を終わった人もあった。

しかし、吉備真備玄昉ら遣唐使に従った留学生や学問僧たちは、数多くの困難を乗り越え、の文物を日本に伝える上に大きな役割を果たした。
朝鮮半島を統一した新羅との間にも、新羅が頻繁に往来した。しかし、対等の立場に立とうとする新羅を日本が従属国として扱おうとしたため、両者の関係はしばしば緊張した。また、7世紀末に中国東北部に興った渤海も、や新羅に対抗する必要からたびたび日本に使いを送ってきた。しかし、8世紀の後半以後、新羅渤海との交渉は次第に貿易を中心としたものになり、使節のもたらす大陸の珍しい品物が貴族の関心の的となった。

7〜9世紀ごろの東アジアと日唐交通路
唐使の航路は、はじめ北路を取ったが、新羅との関係が悪化した8〜9世紀には危険な南路を取った。

平城京と国土の開発

元明天皇の時、それまでの藤原京に代わって奈良により規模の大きな都城が営まれることになり、710(和銅3)年、天皇はここに移った。これが平城京で、以後、京都が平安京(京都)に移るまでの80年余りを奈良時代と言う。

平城京
東西約4.3m、南北4.8mで、東に外京、右京に北辺があった。東西・南北とも4町(約430m)ごとに大路で区切られ、4町四方の各区画は上坊で示された。

平城京は、の都長安に倣い、東西南北に規則正しく走る道路によって整然と区画された都市であった。都は中央を南北に走る朱雀大路で、左京・右京に分けられ、北部中央の宮城には、天皇の日常生活の場である内裏や政務を行う朝堂、各官庁などがあり、政治の中心をなしていた。京内には貴族や官吏の住宅の他、大安寺(元の大官大寺)・薬師寺元興寺(元の飛鳥寺)など飛鳥地方にあった寺院の多くが移されて、大陸風の豪壮な宮殿や寺院が都を華やかに彩った❸。

❸平城宮跡の発掘は国で大規模に行われ、宮殿・官庁の遺構や木管などの資料が次々と発見されている。また、京域からも長屋王などの皇族・貴族の邸宅や庶民の住居の跡が発見され、都の人々の生活の様子が明らかにされつつある。

このような大規模な都城が運営されたのは、中央集権的な国家体制が整い国家の富が天皇・貴族に集中したためであった。
中央と地方とを緊密に結びつけるため、都を中心に道路が整備され、約16Km毎に駅家を設ける駅制が敷かれ、役人が公用のために利用した。都には、東西に官営の市が設けられ、地方から運ばれる産物や官吏に禄として支給された布や糸などがここで交換され、市司がこれを監督した。政府は唐に倣って、708(和銅元)年の和同開珎❹など銭貨をしばしば鋳造し、蓄銭叙位令を発したりなどして、その流通を図ったが、一般には稲・布などの物品による取引が行われていたため、京・畿内の他であまり流通しなかった。

❹708年、武蔵国から銅が献上されたので、朝廷はこれを祝って和銅と改元し、和同開珎を作った。その後、958年の乾元大宝まで12種類の銅銭が作られた。これを皇朝十二銭(本朝十二銭)と呼ぶ。この他、1種の金銭、2種の銀銭も作られている。

和同開珎
書体は唐の開元通宝に倣ったと言われ、「珎」の字は珍(ちん)の字とも寳(ほう)の略字とも言われている。

政府は、鉄製の農具や進んだ灌漑技術を用いて耕地の拡大に努めた他、周防の銅、陸奥の金など各地に鉱山を開発した。養蚕や織物の技術者を地方に派遣して技術者の普及に努めたため、それまでは、宮廷に使える特定の技術者によってしか作られなかった高級な織物などが、地方でも生産されるようになり、各地の特産品として朝廷に献上された。
充実した国力を背景に、政府は領域の拡大にも努めた。東北地方に住み、当時の朝廷から異民族とみなされていた蝦夷は、7世紀頃から征討の対象とされるようになり、大化の改新後、支配のための拠点として、北陸に渟足磐舟の2柵が設けられた。続いて斉明天皇の時代には、阿倍比羅夫が秋田地方の蝦夷を服従させた。
更に8世紀に入ると、蝦夷に対する支配は一層進み、日本海側には出羽国が置かれ、ついで秋田城が築かれ、太平洋側にも多賀城が築かれた。一方、隼人の住む九州南部には新たに大隈国が置かれ、種子島(多禰)・屋久島をはじめ、薩南諸島の島々も相次いで朝廷に服従した。

●●●蝦夷と隼人
東北地方は元々自然の富に恵まれ、狩猟・漁労・採取の盛んで縄文時代の終わり頃には、特にその北部を中心に亀ヶ岡文化が栄えた。その後、弥生時代の前期には、日本海を経由して青森県津軽地方にまで稲作が行われていた。しかし、近畿地方に基盤を持つ大和政権を中心に国家が形成されてくるにつれて、東北地方に住む人々は、朝廷から異種の文化を持つ異民族として扱われ、蝦夷と呼ばれるようになった。九州南部に住む隼人も蝦夷と同様に異民族とみなされ、武力や芸能で朝廷に奉仕するようになった。
中央集権国家が発展するのに応じて、朝廷は蝦夷を服従させようと図り、時には武力を用いてこれを征討した。8世紀にはいると蝦夷の社会でも、有利な豪族が生まれてきた。8世紀の終わり頃に仕切りに起こった蝦夷の反乱は、このような豪族に率いられた蝦夷が、朝廷により支配の強化に抵抗して起こしたものである。

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