①日本文化のあけぼの2-2
2.農耕社会の成立
小国の分立
弥生時代には、周りに深い濠や土塁を巡らした環濠集落が現れ、また縄文時代には見られなかった石製や金属製の武器が出現する。世界のいずれの地域でも農耕社会が成立するとともに、戦のための武器や防御的施設を備えた集落が出現し、蓄積された余剰生産物をめぐって争いが始まったことが知られている。日本列島もこうして争いの時代に入り、強力な集落は周辺のいくつかの集落を結合し、各地に「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりが成立していった。弥生後期の大量の副葬品を持つ甕棺や、あるいは大きな墳丘を持つ墓の被葬者は、こうした小国の王であろう。
この小国の分立状況は、中国の歴史書からも伺うことができる。1世紀に作られ、全巻の歴史を述べた「漢書」の地理志によると、「倭人」❶の社会は百余国にわかれ、前漢が朝鮮半島においた楽浪郡❷に定期的に使者を送っていたと言う。
また「後漢書」東夷伝には、紀元57年に倭の奴国の王の使者が後漢の都洛陽におもむき、光武帝から印綬を受け、107年にも別の倭国の王が生口160人を安帝に献じた事が書かれている。奴国は今の福岡県付近にあった小国で、同市の志賀島から奴国王が光武帝から授かったものと考えられる金印が発見されている。
これら小国の王たちは、中国や朝鮮半島の先進的な文物を入手する上で有利な立場に立ち、更に倭国内での立場を他より高めようとして、中国にまで使いを送ったのであろう。
邪馬台国連合
中国大陸では220年に後漢が滅び、代わって魏・呉・蜀が並び立つ三国時代をむかえた。この時代の歴史書である「三国志」の「魏志」倭人伝❶によると、倭国では2世紀の終わり頃大きな争乱が起こり、なかなか治らなかった。
そこで諸国は共同して邪馬台国の女王卑弥呼を立てたところ、ようやく乱は治り、ここに邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。卑弥呼は239年、魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と多数の銅鏡などを贈られた。卑弥呼は巫女として神の意志を聞くことに長けていたらしく、その宗教的権威を背景に政治を行った。
邪馬台国では大人と下戸の身分差があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整い、また市も開かれていたらしい。卑弥呼は晩年、狗奴国と争ったが248年ごろに亡くなった。その後男王が立ったが国内が治らず、卑弥呼の宗女である壱与が王となってようやく治ったと言う。しかし、266年、魏に変わった晋の都洛陽に倭の女王(壱与か)が使いを送ったのを最後に、以後約150年間、倭に関する記載は中国の歴史書から姿を消す。
この邪馬台国の所在については、これらを九州北部に求める説と、近畿地方の大和に求める説とがある。近畿説を取れば、すでに3世紀には近畿から九州北部に及ぶ広域の政治連合が成立していたことになり、のちに成立する大和(ヤマト)政権につながることになる。一方九州説を取れば、邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、大和政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国連合を統合したか、逆に邪馬台国が東遷したものということになる。
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