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①日本文化のあけぼの2-2

2.農耕社会の成立
小国の分立
弥生時代には、周りに深い濠や土塁を巡らした環濠集落が現れ、また縄文時代には見られなかった石製や金属製の武器が出現する。世界のいずれの地域でも農耕社会が成立するとともに、戦のための武器や防御的施設を備えた集落が出現し、蓄積された余剰生産物をめぐって争いが始まったことが知られている。日本列島もこうして争いの時代に入り、強力な集落は周辺のいくつかの集落を結合し、各地に「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりが成立していった。弥生後期の大量の副葬品を持つ甕棺や、あるいは大きな墳丘を持つ墓の被葬者は、こうした小国の王であろう。
この小国の分立状況は、中国の歴史書からも伺うことができる。1世紀に作られ、全巻の歴史を述べた「漢書」の地理志によると、「倭人」❶の社会は百余国にわかれ、前漢が朝鮮半島においた楽浪郡❷に定期的に使者を送っていたと言う。

❶当時中国では、日本人を「倭人」と呼んでいたが、唐の歴史書で初めて「日本」という国号を採用した。これは、「倭」と言う文字が良い字でないとして、7世紀末から8世紀初めに我が国が自ら「日本」と称したからである。

前漢武帝が紀元前108年、朝鮮半島においた4郡の一つ。現在の平壌付近を中心とした地域と推定され、中国風の高い文化を誇った。

また「後漢書東夷伝には、紀元57年に倭の奴国の王の使者が後漢の都洛陽におもむき、光武帝から印綬を受け、107年にも別の倭国の王が生口160人を安帝に献じた事が書かれている。奴国は今の福岡県付近にあった小国で、同市の志賀島から奴国王が光武帝から授かったものと考えられる金印が発見されている。

金印
1784(天明4)年、福岡志賀島で一農夫が偶然掘り出したもの。印には「漢倭奴国王」とあり、ふつう「漢の倭の奴の国王」と読む。「奴」は博多付近の小国であった。こうした印は、文書の秘密を守りための封印に用いられるもの。

これら小国の王たちは、中国や朝鮮半島の先進的な文物を入手する上で有利な立場に立ち、更に倭国内での立場を他より高めようとして、中国にまで使いを送ったのであろう。

漢書」地理志
夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以もって来たり献見すと云ふ。
「訳」
朝鮮の楽浪郡のさらに南の海には倭人という人々が住んでいる。そこには100余りの小国が形成されており、彼らは楽浪郡に定期的に貢ぎ物をもってくる。

「後漢書」東夷伝❶
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

「訳」
建武中元二年(57)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。倭国の最南端にある。光武帝は印綬(「印綬」の「綬」とは、(組み紐)のことである)を賜った。
安帝永初元年(107)、倭国王の帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内し天子にお目にかかることを願い出た。
「後漢書」東夷伝❷
桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王 侍婢千人少有見者 唯有男子一人給飲食傳辭語 居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛 法俗厳峻
「訳」
桓帝と霊帝の間(2世紀後半)に倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月を過ごし、主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。高齢だったが、独身で、鬼神道につかえ人々を惑わし操った。各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。侍女千人が付き従っている。面会した者はほとんどいないが、ただ男子一人が飲食物を給仕し、言葉を伝える。住まいや宮殿、高層の神を祭る場所は城柵で囲い、みな兵器を持って守っている。法習慣は非常に厳しい。

邪馬台国連合
中国大陸では220年に後漢が滅び、代わってが並び立つ三国時代をむかえた。この時代の歴史書である「三国志」の「魏志」倭人❶によると、倭国では2世紀の終わり頃大きな争乱が起こり、なかなか治らなかった。

❶三国時代の歴史書「三国志」の一つである「魏書」の東夷伝倭人伝の条の通称。「三国志」は、紀元3世紀に晋の陳寿によって編纂された。

そこで諸国は共同して邪馬台国の女王卑弥呼を立てたところ、ようやく乱は治り、ここに邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。卑弥呼は239年、魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と多数の銅鏡などを贈られた。卑弥呼は巫女として神の意志を聞くことに長けていたらしく、その宗教的権威を背景に政治を行った。
邪馬台国では大人と下戸の身分差があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整い、また市も開かれていたらしい。卑弥呼は晩年、狗奴国と争ったが248年ごろに亡くなった。その後男王が立ったが国内が治らず、卑弥呼の宗女である壱与が王となってようやく治ったと言う。しかし、266年、魏に変わったの都洛陽に倭の女王(壱与か)が使いを送ったのを最後に、以後約150年間、倭に関する記載は中国の歴史書から姿を消す。
この邪馬台国の所在については、これらを九州北部に求める説と、近畿地方の大和に求める説とがある。近畿説を取れば、すでに3世紀には近畿から九州北部に及ぶ広域の政治連合が成立していたことになり、のちに成立する大和(ヤマト)政権につながることになる。一方九州説を取れば、邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、大和政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国連合を統合したか、逆に邪馬台国が東遷したものということになる。



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