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②律令国家の形成5-1

5.平安初期の政治と文化

平安遍都

光仁天皇は、不要な官員を廃止して財政を節約し、兵役の負担を軽減するなどして、政治の再建につとめた。ついでたった桓武天皇は、都を寺院などの旧勢力の強い奈良から水陸の交通の便利な山背国(のち山城国)に移すことになり、これまでの行きがかりを離れ、政治再建の実をあげようとした。天皇は、784(延暦3)年、まず長岡京へ、ついで794(延暦13)年、今の京都の地に平安京を造営し、そこに遷都した。この後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまで、国政の中心が平安京にあった約400年間を平安時代と呼ぶ。
桓武天皇は、遷都と並んで蝦夷の征伐にも力を入れた。光仁天の時、陸奥の蝦夷の族長伊治呰麻呂の乱が起こり、一時は多賀城を陥れた。桓武天皇は幾度か大軍を派遣し、やがて征夷大将軍坂上田村麻呂が反乱の鎮定に成功し、802(延暦21)年には、北上川中流域に胆沢城を築き、多賀城の鎮守府をここに移した。その後、さらに北方に志波城が築かれ、日本海側でも、米代川流域までがほぼ律令国家の支配下に入った❶。

❶その後、嵯峨天皇文室綿麻呂らに北方の蝦夷を討たせた。なお、8世紀から9世紀にかけては、蝦夷の反乱を防ぐため、東北地方から多くの蝦夷が各地に俘囚として移された。また、各地の農民が東北に移住させられ、城柵の周りに住んで農作に従事した(柵戸)。

古代の宮都の変遷
平安京
東北関係要図

律令の改革

桓武天皇は、強い権力を握って貴族を抑え、積極的に政治の改革に取り組んだ。地方の政治については、国司郡司に対する取り締まりを強め、勘解由使❷を置いて国司の交代の際の事務の引き継ぎを厳しくした。唐が衰えて対外的緊張が緩み、また、兵士の質が低下してきたため、792(延暦11)年には、東北や九州などの地域を除いて軍団と兵士とを廃止し、代わりに少人数の郡司の子弟を健児とし、国府の守備などにあたらせた。

国司は交代に当たり、前任者が任期に租税の納入や官有物の管理義務を果たしたことを後任者が証明して前任者に渡す書類を解由状といい、この証明がなければ、前任者は新しい職につけなかった。この解由状を巡る紛争が多かったので、これを審査するために中央に勘解由使が置かれた。

桓武天皇の改革の方針は、平城天皇嵯峨天皇にも引き継がれた。平城天皇は、令で定められた官司や官人の整理・統合を行って、財政の負担を軽減し、嵯峨天皇は、天皇の秘書官としての蔵人頭や❸、今日ないの警察や裁判の業務を司る検非違使など❹、令に規定された官職とは別の新しい職を設けた❺。

嵯峨天皇の即位後、奈良の平城上皇たら京都の天皇との間に対立が起こり、天皇は兵を出して上皇の寵愛する藤原薬子を自殺させた(藤原薬子の変)。これに先立ち、天皇は藤原冬嗣らを蔵人頭に任じ、天皇の命令を速やかに太政官組織に伝えるようにした。その役所が蔵人所で、蔵人所やそれに属する蔵人は、やがて宮廷の重要な役職となった。

検非違使は、初めは犯人の逮捕、治安の維持など警察の任務にあったが、のちに訴訟・裁判も行うようになり、令制衛府の他、弾正台刑部省京職の仕事まで引き受けて重要な職となった。

に規定されていない新しい官職を令外官と言うが、蔵人頭検非違使は、官職についている者の中から天皇が特別に任命する職であった。

これらの職は、当時の政治や社会の実情に即したもので、これ以後の時代に重要な役割を果たすものとなった。
嵯峨天皇の下では、法制の整備も進められた。律令の制定後、社会の変化に応じて、さまざまな法令が出されたが、実務の便を図るため、これらの法令を律令の規定を改正するものとしてのと施行細則としてのとの分類・編集し、弘仁格式が編纂された❻。

弘仁格式とその後に編纂された貞観・延喜の格式とを合わせて三代格式と呼ぶ。中でも延喜式は、施工細則として最も整備されたものであった。

この頃には、またまちまちになっていた令の条文の解釈を公式に統一するものとして「令義解」も編纂されたが❼、これらは法治国家としての体裁を整える意味も持つものであった。

❼やや遅れて、9世紀後半に、惟宗直元は「令集解」を私的に編纂した。

農村と貴族社会の変化

8世紀の後半から、農村では調・庸などの負担を逃れようとして浮浪逃亡する農民が後をたたず、9世紀になると、戸籍には男子の数を少なくするなど、偽りの記載が増え、班田の施行も8世紀の終わり頃からその実行が難しくなった。桓武天皇は、一紀(12年)一班に改めて励行を図ったが、9世紀には30年、50年と班田の行われない地域が増えた。
一方、農業技術に優れ、多くの米を所有する一部の有力な農民は、周辺の貧しい農民に米を貸し付けたり、租税を肩代わりしたりして、彼らを支配し、墾田の開発を進めて勢いを強めた。政府や中央の貴族も、これら有力農民の力を無視できなくなった。
調・庸などの租税の納入の減少は、国家の財政にも影響を及ぼした。政府は、公営田官田など、直営方式の田を設けたりして財源の確保につとめたが❽、やがて、中央の官司はそれぞれに自分の田を持ち(諸司田)、国家から支給される禄に頼ることができなくなった官人たちも、有力農民の持つ墾田を買い取るなどして自分の田を持ち、それを生活の基盤とするようになった。

公営田は、823(弘仁14)年、太宰府管内に、官田は、879(元慶3)年、畿内にそれぞれ設置されたもので、その経営には、有力農民の力が利用された。

9世紀には、天皇も勅旨田と呼ばれる田を持ち、皇族にも天皇から田が与えられた(賜田)。中央集権的な律令の制度は、こうして財政の面からも崩れ始めた。
桓武天皇以後、朝廷では天皇の権力が強まり、天皇と結ぶ少数の皇族や貴族が多くの私的な土地を持ち、勢いを振るうようになった。このような特権的な皇族・貴族を院宮王臣家と呼ぶ。下級の官人たちは、院宮王臣家の保護を求めて、その家人となり、地方の有力農民も、これらの院宮王臣家と結ぶようになった。

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