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「伝えたいこと」について

コミュニケーションの正体は何か

人類の言語文化が文字によって残され始めてから、映像やアプリによるコンテンツに至るまで、人が他者へ伝えたいことについて考えている。
以前、人工知能から見たコミュニケーションとは知識の表現であると書いた。が、それはそのとおりであるのだが、問題はそのコミュニケーション内容は何なのだろうか、ということである。

知識の移転目的

自然要因・社会的要因などさまざまな事象によって人々の生存に影響を受けた場合に、その原因や解決方法について書き記すなどということは、まず優先して伝えるべきことなはずである。しかし、それだけでなく、さまざまなことの経験や知った内容について、自分だけで持っているのではなく、他者にも伝えることで同じ事象に対する認識を深めることができると伝えることができる。あるいは、もっと芸術的な表現だとか感性の伝えられる方法は文化そのものでもあろう。それは他者のためだけでなく自己満足のためでもある。

期待する伝えた結果と伝えなかったことによるマイナス結果

そのコミュニケーションによって得られる効果として期待されるのは、受け取った他者がその知識の蓄えの一部に加えることと、その他者が特定の誰かではなく、不特定の見知らぬ者にさらなる効果を期待する。あわよくば受け取った知識が生かされてより幸福な人生につながればなお良い。それはやがて人類すべてに良い効果を期待してしまう。
逆に、コミュニケーションが不足して、求める知識がないがゆえに不幸を招いてしまうなどと言うことは、それが誰であろうと残念なことである。例えば、他者とのコミュニケーションではなく、ひとりよがりな判断によって相互の利益を害するなどというのは最たるものである。具体的には戦争などというのはその典型であろう。

伝わらない条件

ただし、いくらコミュニケーションをしようとも、互いの理解に食い違いがあったり、そもそも聞く耳を持たない場合には伝わらない。さらには、自説の妨げになるなどとしてそのコミュニケーションを絶つ手段に至ることさえある。もちろん、そのコミュニケーションが最初から意図して相手を貶めるものである場合などは逆に「伝わっては困る」という場合もある。

事実を伝えることにさえも入り込む思惑

国営メディアなどは特に当該国政府の意向を重視して事実について解説する。つまり、解釈を事実と混ぜてしまう。もちろん、数理などの論理の展開など、解釈に多重のパターンのない場合にはそのかぎりではないが、人間の行為や言説など、解釈の仕方によって異なるように観察できる場合には伝える者の見方が加わることによって大きな違いができてしまう。そうでなくても、わざわざ伝える者が求める解釈のために内容を編集されているコミュニケーションと正しい内容のために編集された場合を見分けることはかなり困難である。ましてや最近のフェイクニュースやフェイク映像などに至っては、人間の認知能力を試すがごとく真贋の見分けは困難である。

人間の認知能力の限界

そもそも人間の認知には限界があり、自身の経験の及ばない、あるいは知識の範疇にない事象については完全な理解は不能である。さらにはプロ将棋の状況判断においてさえ完全に読み切れないからこそ段位や冠位を設定するのであって、典型的な能力レベルの限界を示すことがわかる。一般の人間に至っては訓練なしには足を踏み入れることさえできない領域でもある。このような専門性の高い認知能力から日常生活における活動のための認知に至るまで、ことごとく認知が必要な場面は多様に存在する。認知という行為は伝える内容において大きく作用して、伝えられた内容をどう認知するかは個人的に異なるレベルがあると言わざるを得ない。

完全なコミュニケーションが望まれているかどうか

もちろん自分の能力もわかったうえでコミュニケーションをおこなっているならば、完全なコミュニケーションを期待することは望めないということを自覚している。ただし、学会などの高い認識レベルどうしのコミュニケーションにおいては、それが可能なかぎりあいまいでないことが求められる。本来ならば、他の場合の公共性の強いコミュニケーションにおいてもあいまいであることは避けなければならない。あるいは緊急的な場合など生死に影響が及ぶ可能性のある場合なども公共かどうかにかかわらず可能な限り完全なコミュニケーションが望まれる。逆にそうでない場合にはそれほどのコミュニケーションでなくてもかまわないと考える場合も多い。

コミュニケーションにおけるマナー

結局、誰に対してどのような内容を伝えるかというシチュエーションによってそのコミュニケーション内容に求められることも変わるため、それに応じた節度が求められる。だから、国営放送などの公共性の高い場合にフェイクな内容を伝えることは間違いである。それをあえて実行して為政者の有利に働かせようとするなどとは論外の手段である。コミュニケーションという人類の社会手段に対するマナー違反だけでなく犯罪に相当するとさえ言ってよいだろう。一方、あまり深い関係でもない人との間で世間話をするときにそれほどの緊張を持ったコミュニケーションである必要はなく、おだやかな時間が得られればそれで良いはずなどという場合には差しさわりのない範囲で話すだけで良いはずである。これらの場合のほかにもさまざまなコミュニケーションレベルがあるだろうが、それぞれに社会的な位置づけが認識できるかぎりはどうコミュニケーションするかはおのずから明らかであろう。それを破るというのはインパクトもあるが弊害を生む場合もある。

少なくともnoteでの書き込みには自分に対して忠実な内容でありたい

不特定他者へのコミュニケーション手段においては、自分の在り方がどのように伝わるかということが大切であろう。実在しない自分の内容について虚飾を重ねることは無意味であるし、迷惑なことでもある。
ということで、長い内容になってしまったが、私がnoteで書く内容について今後の指針としたい。

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