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生物と非生物

(2年半前にFBのノートに投稿したものです。FBのノートが使えなくなってしまったのでここに再掲します。)


遅まきながら人工生命を本格的に研究し始めた。最初に考え始めてからもう、50年近くたっている。その間、多くの経験をしてきて、具体的なシミュレータを作成しているとその先が見えるような気がしてきた。そこで、眠れなくなるほどの疑問がむくむくと頭をもたげて離れなくなった。生物と非生物の境界はなんだ?


人工化学(Artificial Chemistry)という研究分野がある。これは、分子生物学の現象を人工的なしくみ(化学レベル)で再現してやろうという意欲的な取り組みでもある。ところが、化学レベルでは、生物と非生物の区別があいまいである。別に、同一物質でも細胞内に存在することもあれば、まったくの無機質な空間にポツンと存在することだって不思議ではない。それでなくても、生物は代謝を繰り返し、時間が経てば元の物質と同じものなどごくわずかという状態も珍しくはない。これは、オートポイエーシスという生物のシステム的定義にあてはめられよう。すなわち生物とはシステムであって、モノではない、ということになる。


私の研究は、そんなモノの相互作用のシステムの結果、生物が存在し得る仕組みを追求するという全体像の中で、階層性に着目してみる。先の人工化学の上位に細胞が存在し、さらに多細胞生物が存在し、器官を備えた生物に至る。そして各生物は個体間のネットワークを通じて社会的相互作用を持ち、社会を構成する。その階層を細かく定義して、各階層内の説明を下位の階層でできるようにすれば、すべての階層の説明が可能になる、、、という仮説を証明したいのである。


だが、どう考えても人工化学でさえ生物と非生物の境界はないならば、すべての階層でも同様になるはずである。それは生物という概念がモノ的に考え得る認識とかけ離れてしまい、苦悩してしまうのである。いったい何を見ようとしているのか?


もちろん、いろいろな方便は考えてみた。パターンの推移、システムの保存性・再生産性、エコロジカルシステム、など。だが、どれも現象論的であって、原理的ではない。とすると、私は生物の原理を求めているのだろうか?生物の原理とは何を述べないといけないのか、を追求するのだろうか。ひょっとすると、これは別に特別なことでもなんでもなく、単なる現象論であって、本質的に生物と非生物に境界はない、という結論になりそうである。それならそれで良いのかもしれないが、すべての研究が塵芥に帰してしまいそうで、なにやら心がざわついている。なぜならば、こんな結末は想定していなかったからだ。


もし、生物というのは単なるダイナミックな複雑性を見せているだけで、存在する物質に特有の存在形態の一つに過ぎない、という冷めた結論であるとすれば、なんと気が楽なのであろう。どんなに環境を破壊しようが、どんなに害毒を生み出そうが、そんな物質的な変更はなんの意味もなく、我々の持つ自然環境への憧憬などくそらえということになってしまう。まあ、それらはパターンを破壊し、システムの連続性を妨害し、エコロジカルなシステムを破壊するのだから、生物らしい面をことごとく否定する対立物であることは確かであるから、自己否定につながり、受け入れることはできない。それでも、冷めた結論というのはとても寂しいと感ずるのはまた違った感覚で、もっと考えなければならない、という気になっている。

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