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「宗教2世」の問題について。


この記事は、私が以前書いたブログを転載、少し修正したものになります。


2021年2月9日放送のハートネットTVについて

放送を見て、考えたことは、境遇に関しては多くが共感、でした。
違いといえば、宗教が違うので、寒い中布教活動をしたり、体罰のような虐待はなかったこと、、でしょうか。
それでも、『家族』という呪縛、社会環境(学校)や交友関係での疎外感、『普通』が奪われたような感覚、信仰しない自由を追い求める気持ち。
同じ親に生まれてきたいか、に関しては何とも言えないなあ、、『親ガチャ』なんですよ、本当に。
私はノーマルかな、人格的にはほどほどかなあと思っております。いい思い出もあれば、消し去ってしまいたい嫌な思い出もあります。

また、一世である母と一緒に、放送中は黙って観ていたのですが、放送後に少し会話をしました。

「私(母)は先生を信じているので。」「○○ちゃんは□□(教団)を勘違いしている。」
そんな口ぶりや素振りから、思想を理解し合えないことを改めて悟り、ただ心の傷が再び切れてしまった、そんな結果になりました。

この考えの差は、チョモランマよりも高く、マリアナ海溝よりも深い…。 そう思いました。



父も母も「宗教じゃない」というけど立派な宗教法人なんだけどなー(大きな独り言)

今回のブログでは改めて宗教二世の問題について私なりに考えてみたいと思います。
少し長くなるかもしれませんがお付き合いください。


(前置きがすでに長い…)


※このブログでは躾けによる暴力など、個々の問題についてはあまり触れず、「宗教と家庭環境と社会」という大きな枠組みで話をしたいと思います。

なぜこんなに悩むのか

まず、なぜ問題になるのか、当事者の立場でいうとなぜこんなに悩むのか、という点です。
それは、宗教というものの性質にあると思います。
お寺や神社を訪れて手を合わせる、その程度の『触れる』くらいであれば経験の一つで済むのですが、、、
宗教は、信仰者の生活に深く関わるものであり、日常の一部、時には大部分を占めます。


※ここからは私の見聞、一例です。
毎日祈りや感謝といったことに時間をかけて勤めて、定期的に集会などで集まって日頃の信仰などについて話したり、また、大きな会合や講演会のためのプロジェクトに参加したりして個人の時間を割いたり、、


そうすることで家庭環境≒生活のなかで自由な時間が奪われたり、凝り固まった考えや思想になっていってしまうことが多いのではないかと思われます。
自ら選択して信仰生活をしている場合にはいいのかもしれませんが、そうではなく、生まれながらの環境で自然とそうした生活をしている場合には見識が狭まってしまい、幼少期は世間一般との違いに気付かず成長し、就学すると逆に社会の文化との違いを突然突き付けらたりなどして訳もはっきりとわからないままに困惑したり、つらい思いをしたりすることになりがちなのです。

子供という立場としては幼少期においては家庭の中が世界の大部分で、その環境下で育つこととなるので、、そこに課題があるかなーと思います。。


宗教の肯定すべき点

宗教にもあるには理由があります。そして本当に必要としている人がいることは否定できません。
思い悩んでいる時の心の支えになったり、行動指針となったり、生きる理由となったり。
宗教を離れた私は「趣味」がその代りになっているわけですが。きっと世間一般の多くの人が「趣味」や「交友関係」、「仕事」などでバランスをとっているのではないかと思います。
そういったコンテンツから得られないもの、得られなかったものを求める人が辿りついた宗教は、例えばその人の生活の精神的な安定に繋がっていたり、必要とされていたりするのです。また、宗教内にも交友があったり役割(≒仕事)があったりするので、そこに活路を見いだしている人もいます。そういった人達には「かけがえのないもの」なのかもしれません。



宗教の問題点

世間一般の多くの人は、「宗教」というと不審がったり、そもそも話題に出さない、避けることが多いですね。その理由の多くは「得体の知れない考え・教義」などに対する怖れや、相容れないという感情なのではないでしょうか。


宗教は特定の人に救いを与えるとともに、そうでない、世間一般の人たちを排除したり邪悪なものとして扱うことがあります。
そういった面から、衝突を避けたりする上で、また、得体の知れない考えに取り込まれず、自身の考えを守るために「宗教」という話題を避けたりするのでしょう。しかし、それが更に宗教の世間との隔離・孤立につながっていると言えましょう。

逆に、「宗教」の内側の人間からすると、自ら教義の上で排除したりしているわけですが、特に「宗教二世」の子供の立場からすると、その子自身の希望に関わらず親の勝手で排除や孤立をさせられている場合が多い、更に言うと、自我の芽生えないうちにその選択肢を奪われ、見えなくさせられている場合が数多くあるのです。

ハートネットTVの番組タイトルは『「神様の子」と呼ばれて』でしたが、二世にはそういった期待や特別視されている子供も多くいるのではないでしょうか。
かく言う私も、やれ「みんなが待ち望んでいた期待している子」だの、「生まれたくて生まれてきた子」だの父母の教団の知人の皆様に言われました。。。

私の場合は純粋に幼少期は信じさせられていて、自分は他の子とは違う、格上の特別な子なんだ、この世界のことを全て知っていて、それこそ修行すれば全智全能になれるのだと思っていました。(幼稚園~小学校低学年の頃ですよ、これ。)


そうして自ら社会との関わりを避けたりする場合もあるんですよね。



信仰する自由・しない自由

宗教二世の問題はここに帰結すると思います。
信教の自由、そして多様性があることを知って考えや違いを学び、その上で自ら信仰すること・しないことを選択することがベストなのではないかと思っています。


私は大学で「比較文化論」として学びましたが、神道・仏教・キリスト教・イスラム教、4つの宗教の概要と教えについて触れるだけでいいんです。“宗教には色々あるって、それぞれ歴史や違う考え方がある、そして信じる・信じない自由が保障されている。”
それだけでも小学生、中学生、高校生でそれぞれ社会や倫理の授業かな。できれば義務教育で、触れていたら違うのかな、これからの、親世代、子世代、孫世代と変わってくるのかな、と思ったり。

それとも、それも「異教だから」と遠ざけられてしまうのかな…


この自由を守るために必要なのは、個人個人(一世)の自覚、再度になりますが子供の信仰する・しないの自由という権利の保障ではないでしょうか。



とはいえまだまだこの問題は「宗教二世」という枠組みでは問題提起されたばかり。

今年、2021年が『宗教二世元年』とも言われています。


今後、社会や教育現場でこの問題が周知され、悩んだり、つらい思いをする子供達が減っていくことを心から願っています。

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