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母性原理・個人・民主主義 第1章第1節 母性原理と父性原理

この論文の第1章、第1節です。

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人間の心の中には、対立する倫理観として、母性原理と父性原理というものがあると言われている。

母性原理と父性原理

母性の原理は「包含する」という機能で、全てのものを良きにつけ悪気につけ包み込んでしまい、その中では全てのものは絶対的な平等性を持つ。しかし、その中から出ようとするのを阻止し、そこから逃がさないという否定的な面も持っている。

これに対して父性原理は、「切断する」という機能で、主体と客体、善と悪、上と下などに分離し、母性が全ての子どもを平等に扱うのに対して、子どもを能力や個性に応じて分別する。こうして強いものを作るという建設的な面を持つその一方切断の力が強すぎて、破壊して終わってしまうという否定的な面も持っている。極端な表現をすれば「我が子どもは全て良い子ども」として、全ての子どもを育てようとするのが母性であり、「良い子供だけが我が子ども」として子どもを鍛えようとするのが父性である。

この二つの原理はもちろん対立するものであるが、これは世界における現実の宗教、道徳などの根本においてある程度の融合を示しながらもどちらか一方が抑圧された状態で存在している。これは河合隼雄の「母性社会日本の病理」という本に書かれている、母性原理と父性原理の概念についての要約である。

元型という概念

この概念は、もともとユングの仮定した「元型」という概念の一つである。「元型」とは、人間の「あらゆる情動の源泉」になるものである。ユングが挙げている元型の中に「グレートマザー」と言われるものと「オールドワイズマン」と言われるものがある。これらはそれぞれ母性と父性の元型となる。

母性原理=場の倫理 父性原理=個の倫理

河合隼雄は、日本ではこの2つの原理のうちの母性的な面が優勢になっていると論じている。これに対して、キリスト教というのは父性原理に基づく宗教として、神との契約を守る選民こそを救済することを明確に打ち出している。よって、西洋のキリスト教徒の多い大半の国は、父性原理が優勢だと言える。

これは母系や母権などとは違う。母性原理と父性原理とは、現実の母親や父親とは必ずしも一致しない。サミュエルズはこれを「元型の構造やパターンの概念を、父親の元型的イメージとは慎重に区別」しなければならないと論じている。イメージとは、個人的で歴史的なものである。現実の父親も母親も元型的なイメージは持っているが、それは人間にとって親のイメージというのが、個人的なものが元型的なものを媒介することに依存して作られているからである。意味の混乱を防ぐため、河合隼雄は母性原理のことを「母の膝という場の中に存在する子どもたちの絶対的な平等に価値」を置き、言い換えるならば「場の平衡状態の維持に最も高い価値観」をあるものとして、それを場の倫理と名付けている。また父性原理を「個人の欲求の充足、個人の成長」に価値のあるものとして個の倫理と名付けている。

この二つの倫理観の違いが最もよくあわられている例として、この著者は、交通事故の例を挙げているので、引用してみたい。

例えば、交通事故の場合を例として考えてみたい。ここで、加害者が自分の非を認めてお見舞いに行くと、二人の間に場が形成されて、被害者としてはその場の平衡状態をあまりにも悪くするような補償金などを要求できなくなる。ここで金を要求すると、加害者の方が「あれほど非を認めて誤っているのに金まで要求しやがる」と起こるときさえある。この感情は、我々日本人としては納得できるが、西洋人には絶対了解できない。非を認めた限り、それに相応する罰金を払う責任を加害者は負わねばならないし、被害者は正当な権利を主張できる。ところが、場の倫理では、責任が全体にかかってくるため。被害者とその責任の一端を担うことが必要になるのである。    (河合隼雄 大人になることの難しさ

このように、場の倫理では、その判断の基準が、場に属しているか否かなのである。善悪の判断というのは個の倫理の判断基準であり、この例のような場合では、ほとんど関係なくなる。

それでは、個の倫理と、場の倫理のそれぞれが優勢な状態で発達していった社会はどのようになっているかを検討してみたい。


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