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にしさん(電気通信大学西康晴先生)への感謝の言葉

2023年10月18日、ソフトウェアテスト業界を作り、テスト、QA業界を盛り上げてくれた、にしさんが急逝されました。52歳で私の2つ下でした。

にしさんはJaSSTの発起人で最初の実行委員長、JSTQBの委員長、ISOWG26(テストの国際標準)の主査、そしてNPO法人ASTERの理事長でした。

2005年のにしさんの講演スライドの自己紹介ページ

にしさんは、大学院生のときに日本で最初のソフトウェアテストのコミュニティだと思われるTEFを作り、日本で最初のテストのイベントであるJaSSTや資格試験制度であるJSTQBを作りました。TEF(Testing Engineer's Forum)とは、「テスト技術者交流会」というメーリングリストのことです。大学院生だったにしさんが1998年9月に始めました。

2005年の講演スライド


TEFができたあたりからJaSSTを始めて、ASTERを作るあたりの経緯はあきやまさんのnoteに詳しく書かれています。

前半はTEFを作るまでくらいが書かれていて、後半はJaSSTを始めるくらいのことに加え、研究者としてのにしさんが書かれています。

いくつものターニングポイントはにしさん

にしさんはテスト業界、QA業界の多くの人にとって多くのきっかけを作ってくれた人でした。

にしさんは、各会社の中だけで語られてたテスト技術をオープンに話せるように仕向けて、テストの担当者を技術者として成長させていく道を作った人なので、日本のテスト、QA業界を作った人とも言えます。

なので、それぞれの人にとってにしさんの大事な思い出があると思います。

私にとって、にしさんは、私をソフトウェアテストの専門家として生きていく人生の扉にまで連れてきてくれて、私に扉を開く勇気をくれた人でした。にしさんがいなかったら、私の人生は全く違ったものになったと思います。

ここからは、にしさんに出会った頃から、東京でテストコンサルタントになったあとまでの10年間くらいの間で起きた個人的なことを書きたいと思います。私の人生が一変するこの時期(私のそのころの年齢でいうと30歳からの10年)は、にしさんが多くのきっかけを作ってくれたからです。

自動テストの現場への導入


私がTEFに入ったのは1999年の3月だそうです。私がちょうど30歳になったときです。このときは私は長野県上田市でテスターの仕事をしてました。

TEFに入ったきっかけは、テストの自動化を調べてたときです。毎回手動でやるリグレッションテストをどうにかしたかったので、いくつか候補を選び、最終的に選定をして会社の予算に組み込んで買ってもらい、効果を出す必要がありました。
TEFに入り、自動テストの情報を調べることができ、最終的にMercuryというツールベンダーのWinRunnerというGUI自動テストツールに決めて、その後もTEFでスクリプトを書くテクニックを教えてくれる人がいて、自動テストツールで案件を獲得するようなことまでできるようになりました。同時に自動テストを現場に根付かせる大変さも知りました。ただ、確実に言えるのは、自動テストを現場に導入して、成果を出すことができたのはTEFのおかげです。

Mercuryは2000年問題を前に自動テストで大成功した会社です。イベントも豪華に行われていました。私はツールを購入した関係で1999年か2000年に開催されたイベントの招待券を入手したので参加したのですが、基調講演は、なんとにしさんでした。大学院生なのに基調講演するとか、内容もスタバの品質ってなにか?って話からのテストの話で、こんな話聞いたことがないって感じでした。

Mercuryのプロダクトはその後2008年にHewlettPackardに買われて、現在ではOpenTextのツールになっています。

10年以上後にHewlettPackardに転職することになりますが、TEFでの人脈からのヘッドハンティングで転職しています。こういう人と人の繋がりで人生が変わる経験もにしさんとの出会いから始まりました。

テストコミュニティ/翻訳ワークグループ


私が初めてにしさんにあったのは1999年にTEFのオフ会に参加した時でした。TEFのメーリングリストの書き出しが「東大のにしです。」だったので、西先生という大学のえらい先生だと思っていたのですが、実際にオフ会に行くと、髪の毛が白っぽいんだけど肌の艶から見たら明らかに私より若い、声の通りがいい人が受付してて、その人がにしさんでした。つまり、まだ大学院生だったのです。びっくりしました。私が30歳なので、にしさんは28歳だったはずです。

オフ会では、テストのより深い話をみんなでしてて、その頃の私は、正直いうと何話しているか十分にわからなかったのですが、そんな中で、大学院生ではあるけど、大人たちの前でも全く物おじしないで、言いたいことをいうその姿に衝撃をうけました。

このあと、「基本から学ぶソフトウェアテスト(翻訳しているときはみんなでTCSって呼んでいました)」や「ソフトウェアテスト293の鉄則(この本は翻訳しているときはみんなでLLSTと呼んでました)」の翻訳に携わらせてもらいました。このときはまだ2000年くらいのころです。私は長野県上田市でテスターとして働いていましたが、どうやって翻訳を進めていくのかと思えば、Wikiとメーリングリストでやり取りしながら数十人で翻訳を分担して完成まで持っていくことにも感動を覚えました。実際にメンバーみんなで顔を合わせるのは出版記念打ち上げの日だったって感じです。

TCSの出版記念打ち上げの時のサイン
LLSTの打ち上げで参加者みんなで出版本にサインし合った

この2冊のテスト本に翻訳に参加したのも、その時の私にとってはとても刺激的な経験でした。このような経験があのときできたことに本当に感謝です。参加している人たちは、みんな自発的で、テスト業界に貢献したいという志が一緒で、お互いを高め合うように仕事ができてる感じがしました。飲み会でもテストや品質の話で盛り上がるっていう、それまでの自分の人生では考えられない刺激でした。今どきで言えばWACATEに初めて参加したりすると感じられるような感覚だと思います。

けど、あくまで私は長野県でテストをしている人であり、私からしたら、他の人たちは東京で、大きい会社の第一線で大活躍していて、さらにいうとWCSQという世界的なカンファレンスに出たり、JaSSTというソフトウェアテストのイベントを主催して成功させてしまうなど、私の普段の生活から比較すると全く雲泥の違いのある人たちでした。なので、打ち上げに参加した時とか、オフ会にでるときなんかは業界の有名人に会いにいく感覚で、サインも欲しいし写真も一緒に撮りたい!って感じでした。LLSTの打ち上げにはチェキを持っていき、いろいろな人と写真を撮りました。にしさんと一緒にとった写真も残ってました。

LLSTの打ち上げでチェキでとったにしさんと私の写真

オフ会で聞いた、にしさんのコンサルとして働いている話なんかは、もう驚きが凄すぎて、帰りの電車の時間を間違えてしまうほどでした。なのでその日は長野に帰れず、東京の親戚宅に泊まりました(笑)

現場のテスターからテストコンサルタントへのジョブチェンジ

そして2003年の秋、34歳だった私は長野県から東京に出て、テストコンサルタントになる決断をします。ちょうどそのころ、会社の中でマネージャー的なポジションになってしまい、テスト技術を学ぶよりもピープルマネジメントや組織マネジメントをもっとやらなければならなくなっていて、ストレスや不安があったからです。役職よりも、もっとテスト技術を身につけて行って、テスト技術で勝負できるようになりたかったんです。

けど、いきなり長野県から東京に出てったりしてうまくいくかもわかりません。私は大胆にもにしさんに「コンサルになりたいので東京の会社に転職しようと思いますがアドバイスをください」って感じのことを書いたメールを送ってしまいます。

このとき、にしさんはすごい長文で返信をくれました。ありがたい話です。マーケットの状況とか、私が転職しようとしてる会社のビジネスモデルなんかも調べてくれて書いてありました。長文をここに載せるのはできませんが、返信を要約して書くと「東京の会社で育ててもらうっていう甘い考え方じゃうまくいきませんよ、そんなんだと単なる派遣マネージャーレベルになっちゃうよ、コンサルは工数売る仕事じゃないから忘れないでね。それに、適当なことを言いふらすようなコンサルだったら叩き潰しますよ、この国の弊害になるから。それでも転職するなら自分ができることはなんでもしますよ、湯本さんのことが好きですから。」って感じでした。これ読んで最初はびびったのですが、こう言われただけで諦めちゃってもカッコ悪いし、ほんとに失敗するならした方が諦めもつくので、結果的に転職し、東京に引っ越しました。

そして、転職したその日に、その会社の社長から「電通大の西先生って知ってるか?」と聞かれます。何かと思えば、にしさんが、私の入社前にその会社の社長に連絡して会っていて、湯本さんが転職すると聞いたけど、彼は優秀な技術者なので、JaSSTの実行委員になってもらいたいので許可してもらえないかというような話をつけてたのです。

これ、すごくないですか?

入社して数日後、私は五反田のIBMオフィスで行われたJaSST実行委員会に参加しました。ここでは翻訳の打ち上げであった秋山さん、大西さん、大野さんがいて、それ以外に榊原さん、高橋寿一さんといったすごい人たちとも面識を持つようになりました。JaSST2004開催前で、なんとトムデマルコが基調講演であり、翔泳社と共同開催という計画の準備段階でした。

その後も、にしさんは、日経ソフトウエアという雑誌でのテストの連載や講演の仕事を紹介してくれました。こういうチャンスをもらえたおかげで、名前も売れるようになり、コンサルタントとして仕事が取れるようになりました。

ゆもつよメソッド

にしさんは、現場のやっていることに名前をつけるのが上手でした。テスト観点、CPM(コピーペーストモディファイ)法とか有名です。

私がやるテスト分析のやり方に「ゆもつよメソッド」って名前をつけたのもにしさんです。

2007年のにしさんの講演スライドから

2005年から2010年くらいまでは、mixiがにしさん、あきやまさん、ミッキーさんで雑談する場になっていて、テスト技法など勉強したことを書くとたくさんコメントをつけてくれて、たくさん話ができました。ある日、mixiで「ゆもとさんのテストプレスで書いてたテストのやりかた、なんて名前の手法ですか?」って聞かれました。「名前は特にないです」って答えたら「じゃぁ、ゆもつよメソッドでって名前にしていい?」ってなって、こうなりました。にしさんはいろいろなところで講演をしてたので、この名前は一気にひろまりました。私は、「ゆもつよメソッド」でコンサルの仕事がとれるようにもなりました。最初はあまり気に入ってなかったのですが、ここまで広まるとは思ってなかったし、いまとなっては感謝しかないです。

mixiの日記で会話してる様子

海外出張や熱海での智美塾合宿

にしさんとは、サシで飲みに行ったことはないです。前述した通り、私が知ってる最初の頃から有名人であり、正直いうと、話すときはいつも緊張してます。これは最後まで変わらなかったかも。

それでも、ASTER関連の海外出張や、智美塾の熱海合宿(2009年の夏くらいから10回くらいやったはず)で一緒になる機会に声をかけてもらい、一緒に活動する機会があったのは感謝です。
こういうときのにしさんは、笑いのセンスがたっぷりでした。

2008年の上海出張での夜、ホテルのラウンジで飲んでたときは、たぶんにしさんがお酒を飲むのを初めて見たと思うけど、マジ全開に面白かった。違う意味でこの人スゲーって思った。話してた内容は書けないけど。

2009年にポーランドのクラコーに一緒に行ったときには、週末の観光ツアーでバスの席が隣になり、長い時間いろいろなことを話ました。多分二人サシで何時間も話したのはこのときが最初で最後だった気がします。コンサルタントでクライアント先であったすごい話をいくつも話してくれたり、VSTePはどういう思いで作っているのかとか話をしてくれました。

ポーランドのクラコーでの夕食

2010年以降

2010年以降は会話の主体がTwitterに移行して、Twitter上でも優しいし面白くて、間違ったことには非常に厳しいにしさんでしたが、みんなが知っていることなので、私からあえて書くことはないかと思います。実際、私がにしさんに会うのも年に数回程度でした。

けど、2017年のマレーシア渡航パスポート事件はすごい出来事でした。日本人だと私とにしさんしかその場にいないので、どこかで忘れないように書き留めておきたい大事件でした。

最後にあったのは2023年9月29日で、亡くなる半月前くらいでした。品川カンファレンスセンターでランチを一緒に食べて、ISTQBのGAパーティ会場まで一緒に歩いて行き、お互いの近況を話しました。

ということで取り留めない個人的な話ばかりになりましたが、本当に感謝しかないです。ちゃんとお礼の挨拶もできなかったです。

今後もいろいろなことを一緒にできるものだと思っていたので、非常に残念な気持ちでいっぱいなのですが、これからはにしさんがやっていたようなことをひとつでも受け継ぐことができるようがんばります。

ありがとうございました。

https://jasst.jp/symposium/jasst12tokyo/pdf/A8-2.pdf



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