いわゆる「コミュ力」がなくても食っていける時代

「近年、コミュニケーションが希薄になった」と言われることがある。確かに、マンションの隣人と話したこともないし、地域に友達もいない。しかし、コミュニケーションを「お互いを知ること」と定義すれば、私は離れた友達の近況も知っているし、知り合い程度の人がどんな趣味を持っているのかを知っているし、向こうも私が昨日なに食べたかどこへ出かけたかを知っていたりもする。これは「希薄になった」とは言えないではないだろうか。

私たちが10年前よりも誰かのことをたくさん知っているし、たくさんの情報を持つことができているのは、物理的にコミュニケーションの場数が増えているからだと思う。すると様々な情報を毎日処理することになるので、情報処理経験値が高まり、1から10まで説明してもらわなくても何と無く内容を察することができてくる。

例えばSNSにパンが乗れば「ああ、作ったんだな」とわかるし、赤ちゃんの写真があれば「生まれたんだな」とわかる。

今だと、マスクをした総理の写真に「回収に怒りの声」みたいなタイトルがつけば、ああ、安倍マスクに不良品があったんだなと思うし、眼鏡をかけた医療チームの某先生の写真に「第2波の懸念」とあれば、「ええ、某流行病、危険じゃん。。。」と思考回路が回り出す。

「今みんな文章読まないしね」とよく言われるが、ビジュアルとキャッチの効力は想像以上に大きく、入り口で合点してしまうと、そこから先へは入らないものだのだ。だって、たくさんの情報を処理するにはそうしなくちゃならないから。

広告はこの効果を利用していて、例えば、「今日から我が家はパン屋さん」というキャッチに四角い機械の写真を置けば、それがホームベーカリーだとわかるし、「ぐびぐび飲んでも酔わない」というキャッチ脇になにやら缶飲料があれば、ノンアルコール飲料なのだなとわかる。

私はデザイナーという仕事柄、会社案内を作ることが多く、よく会社の特徴をまとめるのだが、ほとんどの人は自分の主張を長々と持ってくることが多い。例えば

「うちは明治時代から3代続く草履屋で、150年続く技術を積み上げて今も皆様の足に合う、履きやすい草履を作っています。今では草履を生かしたスニーカーなども販売して云々カンヌン〜〜〜」という紹介文があったとして、これをビジュアルとキャッチでまとめるとすれば「150年も愛される草履を作る」というキャッチに5人の人物の写真を載せる。明治時代っぽい格好をした物売り、戦前っぽい時代の学生、高度成長期の職人、銀座を歩く着物姿の人が草履を履いて良い顔をしている。そして5枚目に草履型スニーカーを履いた若者。これだけで、上記の長い文章は半分以上伝わるはずだ。

コニュニケーションというと話し上手で対人スキルがある人が得意なものと思われがちだが、そうではなく、こう言った物事の効率的な変換力がある人に軍配があがる時代になってきたし、どれだけ話せるかではなく、どれだけ心に刺せるがが大事になってきたりする。

なんであがり症で人見知りで対人スキルのない私にはもってこいの時代になったなぁと思うわけです。。

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