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概念が苦手

どんどん手に触れることができない言葉のことを考えることが苦手になっている気がする。仮定の話、仮説、もし〇〇だったら、子供の時は(今自分が子供でないと認識しているのに)などなど。

昔はもう少し気軽に想像したり、妄想したりしていたような気もするが、人間のわからなさや、行為の暴力性に触れるうちに仮定の話が不得意になってきた。

それは過去形にしたところであまり変わらない。私が子供だった時、私が妖精だった時、私が高校生だった時、私が老人だった時、私が死者だった時。

いくら考えてもそんな時のことはよくわからない。今はそうではないから。

私が今とらえていること、とらえた結果行動していることすら、うまく考えることは難しいのに、その起点である自分の足元をずらしてしまったら途端にどの座標軸に存在していたのかわからなくってしまう。

言語化することから抗うことから新しいことが見えるのだろうか?
手で何かを作り、それで相互行為を行うことで超えられるのだろうか?

この日記は、自分に起きたこと、周りに起きたことを書くことで、自分と世界の輪郭をしっていくプロジェクトだ。

今日はその目的からは一番離れたことを書いてみたのだと思う。

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