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ともす横丁Vol.22 喪失するということ

半分の水が入ったコップを見て、どう思いますか?と問われることがあります。たった今の状態について答えるわけですが、これには時間軸がありません。もともとあふれるほど一杯だったけどこぼれて半分になったのか、何も入っていなかったところに半分注ぎ足されたのか、それによって受ける印象、動く感情は違うはずです。

私は長いキャリアの途上にいましたが、会社を辞めました。両親の余生が穏やかで和やかなものであるようにとの願いからです。

そのコップはあふれるほどだったけど、一気になくなってしまいました。属するところも、ともに働く仲間もいなくなりました。空っぽになったように感じました。自分が存在する意味や価値はどこにあるのだろうという想いが自然と湧いてきました。

水の入っていないコップは干からびて、もう必要とされない感じがします。もう何もないんですから。といってもよく考えれば、コップという器、容れものがあります。器としてのコップは、ただのコップじゃありません。時間をかけて生み出された風合いや味わいがあります。水は入ってないかもしれないけど、器そのものに味わいがある、そう思えば愛でることができます。これまでの経験は器の味わいとなって変化しているだけで、実は何も消えてない。

一旦、死んだみたいなものです。本当に死んだわけではなく、木が再生していくように、その器は深みを増していくのだと思います。何百年もたった茶碗がさらに味わいを見せるように。魂が磨かれるように。

失くなったから有ることに気づきます。なくなったことが寂しく、嘆いたり不安になったりして。心の蓋を外して、あふれてくるものをあふれくるままにあふれさせたら。浄化でしょうか。気づかれずにいた想いたちが成仏して天に昇っていくような気がします。その奥底にある真の想いが覗いて見えたら、はがれてむき出しになってそれが見えたら、その時何が自分に湧き上がってくるのか、想いもしなかった自分に出会えるのではないかと思います。育んできた自分がちゃんとここにいます。有るんです。そして有るが在るを生むといってもいいかもしれません。

父は旅立ち、失いました。見えるところでは。でも、失って、見えたときには拒絶していたものが、自分の中に生きていることを感じ、受け容れ、愛おしく思うようになりました。私の中になかったものが生れてきたような感覚です。でも確かに有ったんです。そして私の在り方は自ずと変わっていくのです。

何かそれは、後から見ると喪失という死が必要だったみたいに感じます。冬の間に土を休ませるみたいに。たくさんの落ち葉が土を肥やすみたいに。

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