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ある意味ではフルタイム通話な1日

今日土曜日は、生徒さんを含めて、複数のひとたちとの通話に終始し、朝6時からほぼぶっ続けで、通算で8時間ぐらい、誰かと日本語で話してばかりだった。

時差の関係も有るので、日本在住の方々が深夜から早朝にかけて、コッチは早朝から夕方にかけて、というタイムゾーンとなったが、年齢も10代から30代までと見事にバラけたし、何よりも通話者全員が話し好きで、様々な分野に好奇心を持って突っ込んでは、真面目な内容も対応できるから、時があっという間に過ぎてしまった。

やはり直接話すのは、楽しい。雑談的な形式であればあるほど、互いの、声のトーン・言葉選び・反応に、準備をしていない自然さが出てくるし、特にスカイプ等のツールは相手の顔が見えるから、電話と違って無言の瞬間でもちょっとした表情の変化まで、しっかり伝わってきたりする。

フィジカルな会話は、瞬間的な返しが常に要求されるし、単一のアイデアを様々な方向へ広げられる、貴重な機会だと私は思う。

実際私のこれまでの経験上、仕事であれ日常的な事柄であれ、物事を進展させる最初の大きなステップは、直接の話し合いが殆どなので、ピンクフロイドが22年前にKeep Talkingと歌っていたのは、正しかったんだなぁと。

私自身、いまこのブログという形式を用いて、第3者にも見える状態の文章を綴り、自分の考え等を吐き出しているが、一方で、テキストによるコミュニケーションには常に懐疑的だったりもする。

ある程度の語彙力が付き、良く言えば技術的、悪く言えば歪曲的に文章を操れるようになった20代は、特に人間関係に於いて、文章だけで解決しようとした結果余計「こじらせた」経験を相当数経てきたので(それも大半が、直接話し合えば4分で解決できる事柄ばかり)、現在は他者と文章でのコミュニケーションを行う場合は、極力簡潔に書くようにしている。

特に10代や20代相手には、直接の通話への誘導を、必ず試みている。実際に話したほうが、コッチの言いたい事や相手からの質問の回答がほぼ100%、伝わるからだ。

さらに、文章に関して私は、日本語と英語で明確な違いを感じている。

英語の文章書きは基本、ひたすら機能的というか、余計な装飾を付けると読み手に理解されないから、歪曲的な表現を挟み込む余地が無い。

ところが日本語の文章は、機能的に書きすぎると、冷たい印象を与えてしまう。(ように思える)

この時点で説明不足を承知で書くが、様々な紆余曲折を経た挙句、私が現時点で、あくまで現時点で、の話しだけれど、辿り着いた一定の答えが、上記の通り。

あれこれ書いているうちにまとめづらくなってきた、というよりも、このまとめられない半熟丸出しの感覚こそが、オンラインにそこそこの量の文章を敢えて投げ込むライブ感だと思っているので、日付が変わる前にというか、その流れを保つべく、このまま「公開設定」ボタンから文章を投げ込んでしまうとする。

たまたまこの雑記を綴りながら別ウィンドウで観ていた、サウスパークの新エピソードのCMで、いきなり使われた、モトリークルーの有名曲(48秒の辺りで「あんたの母ちゃん、納豆売り」、1分17秒を始めとするサビの2番で「金玉張るほど粘った」と聞こえる)を聞いていて、これは日付が変わる前にオンラインに投げないと、とも思った次第だ。ということで、はい、送信!