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オンライン雑記の動機

トランプとヒラリーの最終討論会の、あまりの尻切れトンボぶりに、その辺の打ち切り漫画を超える別の意味での感動を覚えた(=覚えてません)ところで、今晩の雑文を。

このnote.muというツールを使い始めて一週間以上が経つが、これを使っていると、自分がそれこそインターネットを始めたばかりの頃を、多少ながら思い出す。

それは一気に、1998年頃まで、遡る。

当時は、今ではヤフーに吸収されたジオシティーズが、無料ウェブページのスペースを提供する最大手として名を馳せており、インターネットを始めたばかりの人間にもその存在と利便性が浸透したほど。

インターネットに触れる上で私は結構恵まれていたほうで、親が仕事場からお下がりの富士通製のパソコンを持ってきて、そっから業者に頼んで電話線を通して、はい、完了! おおすげー、これで自分と世界が繋がるのかよ!と最初の頃は本当に興奮したものだった。

まあ男性ユーザーの99.9999%は昔から、ネットを始めたばかりの頃はエロとグロしか観ないと言われており、それは私も例外では無かったが(10代を終えたばかりのガキはそんなもんよ)、大体それも何日かすると飽きる。人間、映像的な刺激だけでは、全然物足りなくなるからだ。

ではそれらに飽きても尚、インターネットに惹きつけられてやまなかったのは、生身の人間がウェブページを作って自身の日記を公開したり、電子掲示板上で舌戦を繰り広げたり、共通の趣味を持った者同士で電子メールのやり取りが始まったり、との具合に、顔が見えなくても、人と人とのコミュニケーションが存在したから。

人間はそもそも何を考えているのか分からないし、行動も不規則で、だからこそ、テキストだけのやり取りから始まっても、どんなゲームよりもスリリングで面白い。

特にインターネット上にアップロードする日記は、相手に読んでほしい、読ませたい、との気持ち以上に、開始当初は書くこと自体が楽しかった。

もうそれこそ、起床してからの流れ、(当時は大学生ゆえに)授業の大雑把な感想やら、帰り道に寄ったコンビニで買った食べ物、読んだ本の感想などなど、単に書くだけで、楽しいのだ。

現在私がベーシック・フォーマットとして使用しているこのnote.muというツール、私がこれまで使ってきた、大雑把に言えば「長文も打ち込み可能なテキスト・ページ作成ツール」において、抜群の使い易さを保っている。

ここでURLを持ってきてここでタグを打ち込んで、といった余計な事を考える必要なく、適当に打ち込んでいてもガンガン、下書きに保存されていくから、ツイッターを立ち上げているタブの真横で編集が気軽に、出来る。

なので、余計な事を考えず、自然体で文章を綴れる。誰に強制されたわけでもなく、能動的に、自分の頭に浮かんだ事を、脳内から消去される前に文章化している、との具合に。

一日の間で様々な情報を漁っては、あれこれ頭を回転させている、自分みたいな人間は、ある程度は第三者にビジブルな形でメモを残しておかないとならないと、ここ数年で思うようになったし、それを殆どストレス無くできるから、今の自分には丁度ピッタリのツールという気がする。

いずれは熱が醒めて、不定期にはなるだろうが、可能な限り私も、「何となく思い立ったときに目を通しても、過去のログ等を振り返る必要が無く、その場その場で刹那的に楽しめる」中身にしたいので、読者の方々にはまあ、気が向いた時にでも、立ち寄ってもらえれば、幸いだ。