意味のある作業をその人にとって意味のある事として

仕事が休み返上で入って連続してた時には,休みになって特にやることがないかな仕事でもいいかなとか思っていたけど,やはりそれは幻想で,休みになったらのんびりを満喫している布団の中ですこんにちはぬくぬく.慣れってそんなもんですね.

いい加減就労支援フォーラムの中身を検証していくための文章を推敲しなきゃとは思うのですが,メモを見返してみたら項目が中途半端に多くて,これを見て思い出せるのか自分,みたいな感じです.まぁでもちょこちょこやるますよ.

ということで逃げを打ちつつ(何),そう言いつつもメモは増えていってるんでそっちからいろいろ思うところをお蔵出していったり.

最近グループホームで暮らし始めたメンバさんに対してモニタリングが予定されているというので,それに向けて現状確認の話し合いなぞがあったり.個々の遊び・日課・家事・交流についてはいろいろあるけど,そこに流れる意志や希望などが全然聞かれない,もしくは「ない」という言葉に集約されそうなのが違和感を感じ,わからない事をわからないと言う方向から,わかりたいという方向に持っていきたいなと.関わってないから言うことが無い,という言葉に対して,なぜそうなるのかという事は考えていかないとなぁと,なんか話を聞いているうちに信念対立に陥りそうな自分の情動を感じて,一歩離れて捉えてみたりとマインドフルネスもどきで云々.日中活動なところを関わる面から意見を求められたりしたので,語りを得る為に語りを得られそうな環境設定が必要ですよねと,そしてわかっていこうという意志に応えてもらえるようになればというのを含めて,上記のように考えていた事を少し噛み砕いて話したり.あまりピンときた顔をされてはいなかったような気がしたけど,それは時間が業務終了に押し迫っていたりしてあまり関心が向かなかったのかなぁとか,それまでに意見が出てまとまる感じだったのを混ぜっ返すような言葉になって相手の感情を否定的な方向に想起させてしまったのか,とか反省モード.その時に個々人における志向相関というのも大事なんやねぇと思うたり.

まだまだ脳内はオープンダイアローグ優位になっていて,とは言うものの具体的に実践練習をしているわけではない(過去にそういう機会はあったけど参加せず)ので,以前下平美智代せんせいの話を聞いた分と斎藤環せんせいの本を参考にしながら,実際にクライエントと話し合う機会があった時に試してみたりして.ちょうど相談支援でのケース会議があったので,そこで話の流れの中でリフレクティングを挟み込んでみたりして.示し合わせていたわけやないんですが,司会の相談支援員さんはすぐに意図を察してくれたようで話に乗ってきたりして,他にいた人たちは知らないまでも話を合わせる感じで話に乗ってきたり.で割と和やかに話す状況をクライエントが受け入れてくれた感じで会議は終了したりしました.とはいえ,クライエントが場を離れた後に,他のスタッフからいろんな考えや心配事,希望なんかが出てきたりして,むしろそれをちゃんと本人へ話した方がいいんやないね,と思ったりもしましたが.まぁ意図もメソッドも伝えてないのが悪いんでしょうがないかなと思いつつ,数回やってみて少し今までと違う手応えがあったので少しずつでも取り組んで習熟していきたい感じです.相談支援員からは「すぐ(意図を)わかったよ」と笑いながら言われたんですがそんなにわかりやすいですかね.まぁ下平せんせいの話はこの人も聞いてましたしね.そこは助かったというか.

会議の中では話を聞きながら,あーここでメンバさんがとっても素敵なサポートをしてくれているなぁとか,ピアサポートがここからあれば本人及び周りも少しは安心していけるかもとか.継続して本人の拠り所があればいいわけで,それをどう作り上げる猶予期間として就労移行支援も位置付ければいいのかなとかつれつれと.

え,そういう場を思うなら自分で作れですかそうですね(課題.以上余談.

それで,先日の飲み会があった時に以前オープンダイアローグの研修会へ参加された知り合いのOTさんたちがいて,精神科病院で働かれているので「実際のところオープンダイアローグって病院OTとしてどう思うかな」と聞いてみたんですよな.そしたら端的に言うと「OTが活動において話す場として有用」との答えがあったり.ついでに院内での知名度について,看護師さんたちにとっては「名前は知ってるけど実際には知らない」程度なものだそうで.まぁ数例なので般化はできませんが.

ただし,ですが.ここまで書いておいて何なんですが,別にオープンダイアローグと作業療法行為がイコールとはあまり考えてません.手段としてのオープンダイアローグは面白いしやってみての本人との対話,そこからある関係をより良いものにする手段として良いなぁと思っていますが,そこで言葉を使うという事は,言葉を持たない,あるいは言葉を使うのに慎重にならざるを得ない場合には別の方法をも考えた方がいいんじゃないかと考えますし,作業療法はあらゆる作業を手段としても使うので,適材適所やないかなと思うてたり.じゃあどういう位置づけなのかというと,これは私見(しかも又聞き)ですが,もし絶対的作業療法行為と相対的作業療法行為というもの(by山野克明せんせい)

作業療法士の行為について,作業療法理論を用いて個人にとって意味があるとされる文化や社会を反映した作業を用いる独自性の高い行為は「絶対的作業療法行為」,理学療法やリハビリテーション医学と重複する感覚・運動活動や生活活動を作業として用いる場合は「相対的作業療法行為」というような定義づけが可能であると考える.

で定義づけられるのならば,オープンダイアローグは相対的作業療法行為に近いものなんじゃないかなと思います.我田引水な拡大解釈かな.

作業療法的にまとめるなら,さっさと例えばADOCとか使って本人の意志を確認する状況を作っておけばもう少しまとまりのある内容で共通の理解を得られたかもなぁと思わないでもなく.いやADOC使う事が目的ではないんやけども,本人と意志の共有を行っているつもりでも,実は確認までで止まって共有までいってなかった可能性はあるんよねと.いやまぁそこはまず人対人という関係性の持ち方から考えていかなきゃなぁと言うことと,それは何のために行うのかという意味をはっきりさせた上でやりたい所存です.今後の課題という事で一つ.

追記(20161219) 身体性云々とか言葉を使うからとか言ってますが,別にオープンダイアローグは身体性を切り離してはいないですね.むしろ身体性を大事にするからこその対話なので.べてるも例に挙げられていましたが,そこにも「日本語学校」と言われるような,言葉以前のものを取り扱う要素はあるので,単純に対話という字面に含まれないいろいろなものを含んでいく意味があるのを考えていく必要はあるかなと思います.

プログラマを経て作業療法士へ.精神科病院で病棟やデイケア,通所リハなど渡り歩いた後で自立支援事業所へ.主な担当領域は精神障碍を持つ方の生活支援,特に就労支援が中心.大切な作業を大切に,がモットー.