1969年生まれの私の音楽遍歴を記録①

1969年生まれって数字がかっこいいよね。
好きを仕事に、というけれど、
なんで仕事にしていなかったのか不思議なほど、
学生時代は音楽好きでした。

覚えている記憶から、少し年代に裏付けをとりました。
昭和50年代、1970年後半からです。ざっとダイジェストに記録してから、また詳しく思い出して書き残していきたいと思います。

【小学生低学年】1970年代後半
■ピンクレディ
最初に買ったレコードは1976年ピンクレディーの「SOS」だったと思う。

■ゴダイゴ
同じ時期テレビドラマの「西遊記」や
アニメの「銀河鉄道999」が大人気で、この主題歌を歌っていた
ゴダイゴの歌も好きで、英語の歌ってかっこいいなあ、と思っていました。

・・・音楽は好きでしたが、皆が口ずさむヒット歌謡曲の歌詞が覚えれない、歌詞があまり聞こえてこない、というのを薄々感じていました。
そのまま「曲」「サウンド」重視志向になっていったのであります。


■【小学生高学年】1980年ごろ
松田聖子
アルバムは2枚目の「North Wind」をカセットテープで買い、
その後もアルバムは限定版含めて予約してレコード買っていました。

■YMO
松田聖子と同時期に、テレビで聞いたYMOの「ライディーン」という曲に衝撃を受けて、歌がメインでない曲もあるんだな、と思ったりする。
お金をためてカセットテープのベスト盤みたいなのを買いました。

■ノーランズ
アイルランドの姉妹グループ。日本でも流行していたので。
アイドルっていった感じで、ブロマイドなども売っていました。
私も何かに応募して、ノーランズが振袖の着物を着て写真に写っている年賀状をゲットした記憶があります。

・・・その頃はまだレンタルレコードなどもなくて、聞きたい曲はテレビから、カセットデッキを前に置いて録音するという、原始的手法。

テレビとデッキをつなぐ線は買ってもらったものの、
外の音まで入ってしまうので、ザ・ベストテンなどのテレビ番組から
ぐっと息を止めてですね、録音するんです。涙ぐましい。


【中学生】1980年代前半
この頃からレンタルレコード店なるものが町に出現!
母もオフコースやイルカを借りてきてくれというので、
借りて聞いていました。

大きな転機は覚えてます。
中学2年生14歳2月11日 FMラジオってAMラジオより音がきれいだなあ、
と自分の部屋でずっとFM大阪かけてたんです。
休日は父親がテレビをスポーツ中継などを見て独占していたので、
家ではラジオしか娯楽がなくて。

その時に流れた、
■ABC「バレンタインデイ」「ルックオブラブ」
■シャカタク「ナイトバーズ」「インビテーション」

に、YMO以来の衝撃を受けるわけです。
「歌詞のわからない歌」サウンドがかっこいいやん!
すぐに駅前のレンタルレコード店に借りに行きました。

■松田聖子 
安定的に好きでしたが、それ以外の日本人はほぼ聞かず、
この頃からFMを聞いてどっぷり洋楽にはまりました。

テレビでも「ベストヒットUSA」というのが土曜日の深夜にあって、
毎週楽しみに見ていましたので、自然といろんなアーティストを知ることができました。その深夜にやってくれてるというのも、誰にもチャンネル邪魔されずに見れるという、うれしさもありました。

小林克也さんという、日本人のおじさんが、ええ声でかっこよく英語を話すのがまたかっこよかったんですよね。ちょっとした小ばなしにみたいなのも楽しかった。

1983年マイケルジャクソン「スリラー」は同番組で日本で初めて10分以上のノーカット(って言ってたと思う)で放映されたのを見ました。

クイーンやフィルコリンズやスティングやホール&オーツやハワードジョーンズやワムやシンディ・ローパーやカルチャークラブやマドンナ・・・etc 書ききれないくらい。今でも流れたビデオクリップは覚えています。この頃周りに少しずつ洋楽きく子が増えてきていました。

ラジオではFMの土曜日の夕方に増田俊郎さんがDJをやっていた番組が主に録音源でした。この頃はデッキ内で直接録音でき、ノイズはなしで録音が可能になりました!ヒット曲のテープをつくっていました。
洋楽好きな子へ貸し出しをいくらかしていましたね。

チャッチャッチャーチャチャッチャチャー(♩スモークオンザウォーター)
「増田俊郎のマイナーリクエスト」ってフレーズ懐かしいです。
増田さんのちょっとおちょけたトークが楽しかった。

とても好きになったのはデュラン・デュランです。

中学の卒業時にクラスみんなで長渕剛「乾杯」を歌うことになり、
全く歌を知らなかったので、困ったこともありました。


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