見出し画像

あいとりに行こう

この9月に、あいとりに行って以来、早く何かを書かなければならないと思ってきた。ところが目先の業務に追われて、どんどん後回しになった。自分の中に、消化しきれないものがたくさんあって、自分の言葉で何を伝えられるかにも自信がなかった。それに自分が言えるようなことは、他の誰かがもっとうまく言っているような気もした。

そのかわり、リアル社会で出会う人をつかまえては、あいとりの話をした。そして、あの現場を歩いてみるべきだと懇願した。その結果、あいとりから噴出した一連の問題を、日本における文化が直面する危機的局面と憂うコンセンサスが、少なくとも自分の直近には存在することを確認できた一方で、「天皇の写真燃やすとか、慰安婦像とかやりすぎだよね」とか「あれがそもそもアートかって問題なんだよ」とか、「津田さんはアクティビストだからね」というように、事実関係をスルーしたまま、問題を矮小化して、好感度と不快度で図ろうとする人が多いこと、また「あいとり中止になったんじゃないの?」という誤情報が軽々しく人々の口波に乗る状況に、驚き、落胆した。あいとりの事件を「なんか騒いでんな」くらいの認識しか持たない人も少なくないのだ。きっと、私の書くものを読んでくれる人の中にも、そういう人がいると思う。あいとりの事件は、日本のアート史に、表現の自由の歴史に残る大事件であることは間違いない。だから残りもう10日を切ってしまったが、ここに書いておきたい。

海外に暮らしながら時間をやりくりして日本に戻っている自分にとって、日本国内で行われる芸術祭の類には、なかなかタイミングを合わせることが難しい上に、そもそも、観客の多い大型のアートショーは苦手で、けれども祖父が戦後、落ち着いたのが名古屋だったり、父が豊橋出身だったり愛知との縁は強い上に、芸術監督を津田大介さんが務めるということで、始まる前から必ず行こうとは思っていた。

準備中の津田さんがニューヨークを訪れた際に、会うチャンスがあったのだが、その時の話題は、もっぱら、参加者の男女比を均等にしようとするアファーマティブ・アクション的アプローチだった。自分はこの社会に女として生きてきたが、「女の数を増やすために」という配慮とはほとんど無縁に生きてきた。面倒なことにその環境を一人で生き抜いてきたことに対するプライドのようなものがあったりもするので、アファーマティブ・アクションには複雑な思いを持っていた。周りの女性にも似たような意見を持つ人が多かった。

ところが、医大の女性受験生減点事件などを経て、この世の中が、少なくとも職業人を作るという意味においては、圧倒的に男性に有利にデザインされている世の中の制度の実情を目の当たりにすることが増え、「女性だから選んでください」というよりは、男性に一度、履いていた下駄を脱いでいただいて」という観点から、アファーマティブ・アクションという手法にはある程度の意義があるのだと思うようになった。

芸術家でも芸術の世界のプロパーでもない津田さんが、芸術祭の監督を務めることの意義はこういうことにあるのだ、と納得もした。それは、今のような世の中で、アートは、その世界に置いて芸術が唯一無二の存在であるといういわばバブルに包まれた環境に存在し続けて良いのかという問題がある。政治的なアートや芸術的表現を通じたアクティビズムは近現代アートの文脈の中に常に存在してきたが、ドナルド・トランプに代表されるようなポピュリズムの台頭以降、アートの存在価値を今一度厳しく問いただすムーブメントが起きている。欧米では、今、長いあいだ、機関投資家からの寄付や、富裕層による投機買いに支えられてきたアートという世界に、アートというフォーマットを使ったアクティビズムから、その矛盾を指摘する声が趨勢を増しているのだ。


だから、津田さんが監督するあいとりは、現代アートと社会との接続という意味において、より大きな問題へのカウンター的アプローチとして作用するのだろう、と考えた。だからこそ、アートの社会批評としての意味合いよりも、週末の娯楽としての意味合いが強い日本で、芸術家でない人が監督する芸術祭が起爆剤になることを期待してもいた。

あいとりのプレス内覧デーだった8月31日の前夜、私は鳥取にいた。日本国内の土地勘がないため、途中で名古屋に寄って、夜の東京のイベントに間に合えば良いと思ったが、鳥取と名古屋はあまりに遠く、ちょっと疲れていたこともあり断念した。ちなみに、これは一生の不覚だったと言ってもいい。表現の不自由展が再開されたから大失敗にはならずに済んだが、それでも初日に見れていたら、自分が何を感じただろうか、という疑問の答えを今から知ることはできない。見るべきものは早く見る、人生の鉄則にしたいと思う。

そして、一般公開とともに、「表現の不自由展」が激しい脅迫や電凸を受けて、閉鎖に追い込まれたことはみなさんご存知のとおりだ。

私はといえば、あいとりに行きたいあまりに、名古屋でイベントを企画したが、前後の仕事の関係で、市内のメイン会場(名前チェック)でわずか3時間弱を過ごすのが精一杯だった。メイン会場すら、全部は見きれなかった。

9月上旬、日曜日のあいとりは、拍子抜けするほど空いていた。表現の不自由展の中止を受けて抗議の意を表明するために作品を引き上げたり、決まっていた展示内容に変更を加えたりといったアーティストたちが登場したために、完全な形で観ることのできる作品数は大幅に減っていた。観ることができなくなった作品の代わりに、それぞれのアーティストたちがそれぞれの方法でステートメントを出していた。

アーティストたちひとりひとりが、芸術祭が脅迫に負けて展示の内容の変更を余儀なくされたという事態に、自分はどういう立場を取るかを考えたことに思いを馳せながら、結果的にそれ自体が、表現の自由に呈する疑問を体現することになった芸術祭の会場を歩いた。

ある意味、傍観者的に展示されていた作品を見ていた自分の中に、大きな感情の変化が起きたのに気がついたのは、田中功起さんの展示会場のドアに到着したときだ。扉は開いている。けれどそこには机が立ちふさがっていて、中に入ることはできない。中からは、田中さんの映像作品『抽象・家族』
の音声が聞こえる。扉の向こうには、自分が観ることのできるはずだった作品が、手の届かないものとして存在していた。そして客と作品の間に立ちふさがる机の上には、アーティストによる表現の自由についての抗議文がおいてあった。私たちは、田中さんの作品を観る機会を奪われたのだ、ということを体で感じた瞬間だった。

はからずも、あいとりは、表現の自由・不自由、というコンセプトについて考える場所として驚異的な効果を発揮しているなと感じる一方で、その他、計画どおりに展示された作品にも心を動かされる瞬間が多々あった。特に心を動かされたのは、故郷を追われた難民たちにインタビューした映像を、彼らの言葉をアレック・ボールドウィンとジュリアン・ムーアという白人の俳優たちが再現する映像のあとに見せるというキャンディス・ブレイツによる「ラヴ・ストーリー」には、心が震えた。

くだんのアファーマティブ・アクションのことは、すっかり忘れてしまって、会場を出てしばらく経ってから思い出した。

私はアートの専門家ではないが、社会とアートとの関わりについてはいつも関心を持ってきたし、これまでそれをテーマにたびたび文章を書いてきた。ニューヨークという場所において、アートは、富裕層のコレクターたちに売買される商品であると同時に、社会に対する論評やカウンターとして存在してきたが、それについては、もう10年以上も前、某有名ギャラリーのギャラリストにインタビューしたときに聞いた言葉で印象に残っているものがひとつある。

「アーティストたちの仕事は、一般の人々が目を背けてしまうブラックホールを見つめて、感じたことを作品にすることだ」

以来、私は、アートの存在意義を、そこに求めてきた。

このグロテスクで腐敗した世の中の、目を背けたくなるような不都合な事態を見つめ、それを表現して、社会に問いかけることがアートの本当の存在意義なのだと。

あいにく、その考えは、今の日本では、ほとんど共有されていないものだったことを、あいとりから学んだ。表現の不自由展が、引き起こしたのは、日本の不都合な歴史を題材に取り上げ、直視することを迫る作品から目を背けようというアレルギー的拒否反応だった。だからこそ、心地よくないもの、不都合な情報を突きつける展示に、公金が使われることに、あれだけの反発が起きたのだろう。

ニュースやネットを見る限り、文化庁が「表現の不自由展」をめぐる運営上の手続きの「齟齬」を理由に、「表現の不自由展」の予算だけでなく、芸術祭全体に与えられるはずだった助成金を取り上げようとしている事態に、市民から期待するほど「ふざけんな」という反応が出ていないことに、今、半ば絶望的とも言える思いを抱いている。


一方で、表現や芸術の現場にいる人たちからは、これに対する抗議の声が上がっている。理由は簡単だ。芸術家にとって、大規模な作品を実現するためのリソースを捻出することは大変なことだ。一般市民にとって、個人の財力でアートを購入することもまた大変なことだ。ミュージアムという機関は、庶民たちが、アートを買わずにアートを鑑賞できる機会を得られるために存在している。そして欧米のような寄付の文化が、税制上の控除の欠如のために発達しづらい日本では、多くのミュージアムが、その運営のコストを助成金でやりくりしている。その助成金を取り上げられたら、またその助成金の交付を決める「お上」が、展示の内容によって助成金を支払うかどうかを決めるとしたらどうだろう? ミュージアムは、権力や社会に対するアンチテーゼを投げる作品の存在しない、都合がよく、心地よい作品ばかりを展示する場所になってしまう。アートの存在意義はそんなことだろうか?

日本人は、戦後、GHQがその草案を書いた憲法によって、表現の自由というものを与えられた。少なくとも、自分が育った環境においては、表現の自由というものは、民主主義における最低条件のひとつであり、他者に対する暴力を換気する言論や、特定の人種や宗教に対するハラスメントやヘイトという特例をのぞけば、断固として守られるべきものだと教えられてきた。また、お上が悪さをしたり、市民の人権を蹂躙したりしないように、監視したり、反対の声を上げたりすることで表現の自由を行使することは市民の義務だと考えてきた。

こういう構図が今、脆くも崩れ去ろうとしている。そして、表現の不自由展を含むあいとり、そして一連の事件は、それについて私たち一人ひとりがどういう行動を取るべきかを問いかけている。こと、表現の自由という問題においては、市民は全員、当事者なはずだ。だから、ネットやメディアの情報だけで何が起きたのかを理解したような気持ちになるだけではなくて、現場に足を運んで、この事件が日本の芸術史に、表現の自由の歴史において持つ意味を考えてほしいと思う。そういう意味では、日本人たちが忘れかけてしまった表現の自由という素晴らしいコンセプトを再考させる意義が、あいとりにはあると思う。

というわけで、私は、オープニング当初に観そびれた表現の不自由展を観るために、そして芸術祭全部をおさらいするために、そして改めて表現の自由について考えるために、もう一度、名古屋に出向くことを決めた。どうせだったら、この展示や一連の事件について感じることを他の人たちと共有するために、トリエンナーレにみんなで一緒に行くイベントを計画している。

みなさん、一緒にどうですか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?