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国際女性デー

3月8日は「国際女性デー」です。スペインでは、毎年抗議デモがあります。

去年は平日だったため、育児、仕事、家事、消費における全国女性ストライキが組織され、小学校も教師、食堂従業員など女性職員は大半は通勤せず。

母達は旦那さん、男性の親戚などに全てを任せ、一日中ストライキに徹する勢いです。

もちろん各家庭できる範囲で、ですが、女性デーの意味を理解しストライキを支持する男性は、できる限り多くの女性が参加できるよう、代わりになってあげることで意思表示をします。

一方で宣言を読みもせず、「女性の言いなりになんてなってやるものか」と敵視する方もいます。

まだまだ女性からの理解を求める姿勢、偏見を崩すなど課題は沢山ですが、意識作りにかなり効果的なチャンスです。

ここまで性暴力撲滅や男女平等への社会運動の勢いがつき政治に変化が起こるのは、皮肉なことに様々な抑圧に苦しめられた女性が想像以上に存在するからです。そしてもう黙っていてはいけない、という危機感が強く存在するからです。

昨夜、
「明日はストだから学校休みだ、イエーイ」と言った長男に、女性ストライキの意味を長々説明。

「学校でもどれだけ女性職員がいないことによって大変なのかを実感して、その能力や存在の大切さを再認識するためのものなのに、生徒が休んでしまっては男性職員がタダ休みになるだけで意識作りにならない。だからいつも通り学校に行って欲しいの。」

3月8日の主旨は、「社会全体が、女性の日々の貢献とその価値を正当に認めましょう。育児や介護、職場などで自分自身がどれだけ頑張っているか、自信を持って堂々と、評価し意見することを諦めてはいけない。より自由に生きる権利があると、自他ともに認めましょう」ということです。

 


私たちは男女の性別を二つのものと分け、「支配と服従」の関係性が世界中様々な分野で根強く存在する、男性優位な父権主義の社会の中で男女ともに様々な抑圧、社会的圧力を受けながら生きています。 

特に女性への抑圧に関しては、自分の身体について自分自身で決められない、学校などの集団で不平等に扱われる、能力に差がないはずの分野でも、機会が平等に与えられないなど、世界中で人間としての人権を奪っている行為、格差が解消されない国の政策がまだまだ数多く存在します。

顕在的・潜在的に再生産され続けている、性に対する固定概念やジェンダーステレオタイプは、まだまだ根強く、私たちの身体と心に刷り込まれており、性について語ることがタブーであることや、月経は穢れたもの・恥ずかしいものという価値観、

そして自然と切り離して暮らすようになってしまっている今の生活は、本質であるはずの性のプロセスの主体性を奪っており、自分の身体を自分で守ることが出来ない方を増やしています。

私が「女性にとってもっと平等で自由な社会」「女性のエンパワメント」を意識的に求めるようになったのは、自分の2度の出産経験からきています。

私にとって一つの戦いであった、自分が主人公であるお産の実現の為に努力し、それをサポートしてくれる夫や助産師さんに見守られ、自分の意思が尊重される主体的なお産、「自分らしいお産だった」と受け入れることが出来たことは、今の母・女性としての強さと自信に大きく繋がっていると思っています。

そして関係ないようで実は深く深くつながっている、女性の本質である性のプロセスと、社会生活の「土壌」である家庭でのエンパワメントが重要だと思うようになり、ドゥーラになることを目指しました。


ドゥーラとして活動するための基本的なルールは、

・勝手なアドバイスをせず、聞く心を持つ。

・自分の価値観を押し付けるようなことをせず、本人の意思を尊重することを大前提に、より自分らしいお産と育児が実現されるよう応援する。

・他人の判断や偏見は気にせず、「自分」や「赤ちゃん」が望んでいることを感じ、それを大切にする自分づくりのお手伝いをする。

・「自分が産むのだ」「赤ちゃんが自分の意思で生まれてくるのだ」という意識へのアプローチを見守る。

・何もせず、ただそばにいる。それがお母さんの安心や自信になるということを知る。


・・・これは、家庭での子供への教育でも同じようなことが言えるかもしれません。

大人の勝手な判断を子供に押し付けるのではなく、本人の意思や個性を認め、一人の人間としてガイドする姿勢は、子供たちの健全な社会性にとっても役立つと私は考えます。

男子女子と区別し、制約や格差が続いていいのでしょうか?

その制約が原因で「枠」から外れたと感じる子供が「自分は間違っているのか」という想いをしたり、自分の力や才能を発揮できないことがあっていいのでしょうか?

10代の子供たちが、自分の身体の変化が恥ずかしいもの、不安なことであっていいのでしょうか?

「育児と仕事を両立できて幸せ」と感じられない女性が大半を占める社会でいいのでしょうか?

産後支援不足により鬱などに苦しんだり、自分らしい育児に障害を感じる女性が多くていいのでしょうか?

「女性は男性より弱い生き物だ」と発言する政治家が、未だ存在していていいのでしょうか?

様々な抑圧を経験し、差別や性暴力の被害にあう女性が見捨てられたままでいいのでしょうか?

「私に落ち度があったのだ」
「一人で夜出かけなければよかった」
「服装がいけなかったんだ」
「怖くて言いなりになるしかない」
「恥ずかしくて誰にも話せない」

そう罪悪感を感じたり、世間の無関心や上からの圧力によって口を閉ざさなければいけない。

そんな社会で命を産みだす女性の心とカラダが健康で居られるでしょうか。自信を持ってありのままの自分の力を発揮できるでしょうか。

コントロールと服従の関係は男女ともに、「人間の幸せ」の妨げになっていないでしょうか。

エンパワメントや男女平等の社会を目指すことは、、男女両方の課題であり、命や人間の幸せについての問いかけや気づきから真の変化が生まれると私は思います。



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