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エジプト旅行記② 〜エジプト はナイル川の賜物〜

エジプトはどこにあるのかご存知ですか?

アフリカ大陸の北東部です。北は地中海、東に紅海、南にスーダン、西にリビアがあります。リビア、スーダンとの国境が直線になっているのは1884年に行われたベルリン会議によるものです。ベルリン会議とはヨーロッパ列強がアフリカ大陸を分割した会議です。アフリカ大陸にも先住民がいるにも関わらず、自分たちの都合だけで線を引こうって言うのだかひどい話です。

エジプトの国土は地図のように定められていますが、実質の生活圏はナイル川周辺がほとんどです。エジプトの国土の90パーセントは砂漠で、石油や鉱物などの地下資源が取れる事以外はあまり利用価値がないのが現状のようです。

今回の旅行ではエジプト南部に位置するルクソール〜アスワン間をクルーズしました。ゆったりとした流れの偉大なナイル川、両手を大きく広げると上は空で下は地球、世界の中心にいるんじゃないかと思う程の雄大な景色でした。ナイルの両岸には水田や畑、果樹園が広がり、牛や羊が飼われ、動物も植物も力強く雄々しく生きていました。しかし、そのすぐ裏には砂漠地帯が迫っています。生きられる地域とそうでない地域がはっきりと共存している景色は、日本人の私からしたら異様すぎる光景です。

ナイル川流域以外の生活圏の話も少しさせて下さい。ナイル川流域から西側はサハラ砂漠です。砂漠の中にほんのわずかオアシス(泉性のオアシスです。)が存在し、その周辺には人が住むことが可能で、貿易の拠点や観光地として利用されています。グーグルマップ等でエジプトを見ると、ナイル川流域の都市から西側の砂漠に道が伸びています。これらはオアシスを繋いでいる道で、節目を拡大してみるとオアシスや周辺の街が見えます。エルカスル等の有名なオアシスには、スーパーマーケットや会社、教会、学校があって、私がしていた想像を遥かに超えて大きな街なので、驚きました。エジプト旅行を複数回する方はオアシス観光もおススメします。

現在エジプトは国土の大きな国として認識されていますが、古代エジプトの人たちにとったら全く認識の違う、ナイル川流域のみの国という事になります。古代エジプトと呼ばれる時代より以前は、ナイル川の上流と下流で文化の違う2つの地域が存在していました。そして、これら2つの地域を統一したナルメル王という人物の登場により、古代エジプト時代が幕開けとなります。

古代エジプトの言葉でケメトというものがあります。直訳は「黒い土」という意味ですが、エジプトの国を表す言葉の1つでした。この黒い土とはナイル川が上流から運んで来る、栄養分の豊富な農業可能な土の事です。当時の人たちはこの土の上で農業を営み、生活をしていました。その事から黒い土は生活圏つまり国を表し、砂漠の赤い土は対となり死の世界を指す様になったそうです。

エジプト観光をする時にぜひ当時の人たちの感覚を一緒に持っていて頂きたいなと思います。ナイル川が南から北に流れ、その両端に生活可能な土地が細く、または点々とあるだけです。生活圏の総面積は北海道程度と言われているそうです。ナイル川から離れてしまえば、どこまで続いているのかも分からないような砂漠地帯です。命の源はこのナイル川なのです。

エジプトはナイル川の賜物

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの有名な言葉の一部です。ヘロドトスの生没年は不詳だそうですが、紀元前5世紀頃の人物です。当時、ヘロドトスが言った意味はナイル川全体ではなく海との出会い頭にある三角州を指して言われたものです。

まさかこの歳になって三角州という言葉を使うとは思ってもいなかったです。小学か中学の社会でやりましたね。川の流れに乗って、石や砂利、土などが上流から下流へ流れてきます。どんどん流れて行って海に辿り着くと、川の流れは失われて土などが流れず留まり始め、徐々に堆積していき土地が出来てくるのが三角州です。

河口付近に海に土が堆積して浅瀬ができやがて土地の様になり、もっと堆積して堤防のようになると、流れにくくなった水が嵩を増していき左右に分かれて溢れ出し海に向かいます。二本に分かれた先でも同じ様に土が堆積し堤防の様になり、川はまた二本に分かれて…を繰り返していくと元々は大きな一本の川が細い複数の川になり、三角形状にに広がっていく土地が形成されていきます。ここを三角州またはデルタ地帯と呼びます。現在は治水工事が行われナイル川デルタには二本の河川があるのみですが、当時は7本にも枝分かれしその一帯を潤していました。

ナイル川デルタは世界最大級のデルタ地帯であり最大級の河川型オアシスでもあります。偉大なるナイルは川上から砂漠の砂のそれとは違う、栄養豊富な土を運んで、三角形に大地を形成していってくれます。深い所だと20mもの土が堆積しているそうです。そして、広大な砂漠地帯に忽然と現れる肥沃なこの一帯が下エジプトであり、文化的にも経済的にも歴史的にも古代エジプト以前から重要な場所でした。アレキサンドリアやロゼッタもナイル川デルタの一部ですし、カイロはちょうど頂点あたりに位置しています。人口密度が高く、交易や海運業も盛んで、他民族との文化的交流も盛んでした。

ところで、ギザ辺りを境に上流の地域が上エジプトと呼ばれる地域です。現在のカイロ以北からアスワン辺りを指しています。エジプトは南北に約1000kmあり、地中海からカイロまでは150キロくらいですので、引くこと残りの850キロに渡ってが上エジプトと呼ばれる事になります。

上エジプトと下エジプト、流れるナイル川の長さを比較すれば上エジプトの方が圧倒的に長く、一見国土も大きいように感じますが、ナイル川デルタを抜けると川上になるにつれて耕作可能な土地は減少していき、生活条件が厳しくなっていきます。また地中海に面していた下エジプトに比べると、交易に関しても閉鎖的であったようです。古代エジプト時代以前、つまりまだ2つの地域が統一されていなかった頃は特に、この上エジプトと下エジプトは文化的性格が全く違うものでした。

そして紀元前3000年頃、上エジプトの王であったナルメル王が地中海側まで征服し、上下エジプトを統一しました。これ以降、古代エジプトと呼ばれる約3000年の年月の中で、分裂や統一を繰り返し、遷都を繰り返していく事になります。

ヘロドトスが活躍した紀元前5世紀頃、エジプトの首都はサイスにありました。サイスはナイル川デルタにある都市です。なのでヘロドトスのあの言葉もデルタに関して述べたものです。ですが、上エジプトの都市であるメンフィスやアビドス、ルクソールなどにも素晴らしい遺跡が残っています。つまりナイル川デルタに限らず大都市が存在していたわけで、ナイル川の賜物という言葉はもっと広域で捉える事ができると思います。

この話もおいおい書くこととして、今回の記事はこちらまでと致します。

余談 〜ロゼッタストーン〜

ナイル川デルタの話で、ロゼッタという地名が出てきたので、余談にはなりますがロゼッタストーンについて書きたいと思います。古代エジプトの文字はヒエログリフで、こちらです。↓↓↓↓↓

古代エジプトの文字は硬い石に刻まれていたので数多く残っています。今はある程度の読み方や意味が解読されていますが、解読可能になったのは1822年のことで、それ以前は古代エジプトの言葉は完全に失われていました。象形文字なので多少の意味の推測はされていたものの、読み方に至っては判断のしようがなかったのです。

なぜ解読できたのか、それは1800年頃に行われたナポレオンによるエジプト遠征の時、一人の兵士がナイル川デルタのロゼッタで文字の刻まれた火成岩のプレートを発見したことに始まります。このプレートがロゼッタストーンと呼ばれるものです。

ロゼッタストーンには、現在でも使われるギリシャ文字の他に、ヒエログリフとデモティック(民衆文字)が刻まれていました。異なる3つの言葉で同じ文章か書かれていたので、ギリシャ文字を他の2つと照らし合わせることで、やっと古代エジプト文字の解読に成功したのでした。1822年に解読されましたが、この石の発見は1799年なので20数年にわたる研究の結果、やっと読解ができたという大きな発見でした。

古代エジプト文字が読めるようになった事で、研究は飛躍的に進んだ事は言うまでもありません。

現在の日本語で、物事解決の糸口となる事を「この案件のロゼッタストーンとなるものは…」と言ったりしますね。こちらがその由来です。

現在でもエジプトでは考古学者による発掘作業や研究が進められています。我らが吉村教授も大活躍のようで、2021年にクフ王(ギザの第1ピラミッドを建設したファラオ)の墓ではないかと思われる場所の発掘活動が開始されるそうです。もしこれが見つかったら、ツタンカーメンと比にならない程のものが出てくる可能性があります。なんと夢のある事か!

現在進行形のトレジャーハントはエジプトにあります。これから起こる大発見の為に、私が行ったエジプト旅行記を軸にして記事を書いていきたいと思います。エジプトに興味をもってもらえたら嬉しいです。


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