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開け続ける意味

先日スタッフが私に声をかけてくれました。
「コロナウィルス拡大に伴う対策で日々新しいことを次々とやらねばならない今だからこそ、みんなで1時間今思っていること、不安、もやもやすることも含めて話す時間をつくりませんか」と。

なんて大事な提案をしてくれたのだろうと思いました。

月1全員集まっているスタッフミーティングの開催を中止か完全オンラインにするかどうするか決めかねていた私にとってはオンラインでもよいから、その時間をとろうと思いましたし、実際に、通常最大3時間あるミーティングを1時間に短縮しオンラインとオフラインでミーティングをすることにしました。

全体はこれまでも使ってきたズームというオンライン会議の機能を使いながら気持を話すグループワークはフェイスブックのメッセンジャーを使いながら、今の不安を話す時間をとったのでした。
(香川や岡山にいるスタッフ、自宅や外出先からの参加ができるようこれまでもつないできたためZOOMを使ってきましたが、それをスムーズに使えるように準備をしてきてくれたスタッフの数人に本当に感謝です)


そのときに感じたことは、「間」と「喪」について。
(「分断と対話の社会学」塩原良和 2017)

プライベートでは、卒業式に参列できなくなりまた謝恩会やいろんな行事が次々となくなり、「喪失感」を感じているメンバーもいました。
仕事では、1日ごとに変化しつづけるこのコロナ状況を踏まえて、機敏に対応せねばならないことから疲れももちろんあるし、変化が多いため情報量が普段の2倍以上になっているので情報量についていけないという話もありました。

喪失感

この中でも「喪失感」ということは、共有することは本当に大事なことです。

例えば、卒業式卒園式については
子どもが参列できたからいいじゃない!
後から映像が見れるかもしれないし!と前向きな感情や励ましもあるでしょうし、それの代わりにこんな素敵なこともあったし!と前向きにとらえられることもあるかもしれません。
それを自分に何度も言い聞かせてきたことだと思いますが、それではどうにも埋まらない、「でも、悲しい」という気持が奥底にじんわり居続けます。


誰かにをそれをただ一緒に感じてもらうだけで少しずつ和らいでいったりするものかもしれません。

それを自宅で一人で感じている人も他のことで気を紛らわせようとしている人も仕事に追われて感じる時間がない人も、誰にとってもその静かに喪失感を共有する時間は必要だとこの時間や他の幾つかのここ数週間の出来事を通して感じました。

居場所の役割はこういったことを喪失について話せることなのだと思います。時間をとって「静」の時間をとらないと、それを話せない。
今回はスタッフのミーティングでしたが、誰にとってもこの時間が必要なのではと思いました。


もう一つは「間」。

何かを決める時、何かを一対一で話すとき、
何かテーマがはっきりしていることについて話し合う時、
何かを聞く・学ぶ・質問するときは、
オンラインはかなり可能性に溢れていると思いますしこの時期で加速するでしょう。

オンラインでどうにもならないことは、
じゃあ、なんだろう。

もっと言えば、土地の上にわざわざ建物をつくって集まれる居場所をそれだけのオンラインの可能性があるなかでどこにあるのだろう。

こまちカフェではランチを1日同時間1組に制限をする、カフェ内の対策をする、お弁当販売に切り替える、外で販売する、イベントの多くはキャンセルか延期または縮小開催や何かしら工夫しながらの開催ということをしながら2月末から今まですすめてきました。

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それでも開け続ける判断をしているのは、お金のためではなく(そもそもそのためであればこんないろいろ大変な事業を始めてない)
その居場所の意味をずーっと突き付けられていて
それについての答えが今はそうだからということかもしれません。


対面で話すときに、口から放たれる言葉と相手の表情とまわりの香りとやさしい明るさと流れる音楽日のあたたかさがあります。

私はここに居てもいいと思える場が、今この瞬間どうにもならない感情があったときに、その場には今も体温がある。ドアが開いていて駆け込むことはできる。

今はいろんな制約があって気軽にというわけにはいかないけど、でも、開いている。ということが何より今は大事な気がします。
私たちもお弁当をとりに来てくださる方やちょっと納品にきてくださる方と
一瞬会えるだけでなんとも言えない安心を得ています。来てくださる皆さんからも「ああよかった、笑顔な皆さんがいて」と声をかけてもらって、またそれも嬉しくなります。

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(写真はこの前お弁当をとりにきがてらお話しにきてくださったこまちパートナーのHさん)

そこにちゃんと会える隙間・間がある、という感覚なのかもしれません。
ウィルスに関わる身体の安全と気持ち安全は両輪。
広げない責任と参加と居られる場が失われない社会安全を守る責任も両方ある。

そのぎりぎりを考え続けるのは賛否両論吹き荒れる中で難しい時がありますが、まずはその両方の正しさを聞きながら安易な方を選ばないように常に言い聞かせながら「今」のこたえをこの場で体現していくことをしていこうと思います。

今それを続ける挑戦をしています。応援してもいいよ!という方いらしたらこちらのページ覗いてください。これまでの議論も投稿に細かく書いてありますのでそこも面白いです。