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感情のオンパレード と No control.

あーあ。いやだなぁ。正直、いやだ。

なんで、こんな世界に生まれたのか。


こんなことを書いてしまったのが、気になって気になって、仕方ない。

なら消せばいいのに、そうはしない。

なぜこの事がこんなに気になるのか、自分を知りたいから。


何をそんなに気にしているのか。


いやだなぁ、って言っている事もだし、

「嫌である」対象が、「この世界に生まれた事」だから、かな。


なんて罰当たりな、って出てくる。


罰当たり


死ぬほど(そこまでじゃないか)嫌いな言葉だ。

まじで、何言ってんの?対象ワード。


”んなもんあるわけねぇだろが!!!”

って、人が言ったり書いたりしてるのをみると、

あぁ??って突っかかっていくか、

ほんとまじ何くだらないこと言ってんの?いい加減にしてくれる?根拠は?何なの?

って、ある種、軽蔑、ぐらいまでいくかもしれない。


もう、あるある、なのだけど、

これだけ感情が反応する、ということは、

自分の中にあるのに、認めていない、見たくないから見ていない、

だけど、本当はそれに気付きたい、気付く必要があるから、

感情がサイン・シグナルとして、教えてくれてるんだよね。きっと。


分かったよ。何でそんなもの、持っているんだ、自分の中に。

すべてが在るのがあたりまえ、だから、あっても不思議じゃ無い、

むしろ、あってあたりまえ、なのだけど、

これの何がそんなに嫌なの?何にそこまで嫌悪しているの?


”本当にそうなったらどうしよう”  だね。


”「なんでこんな世界に生まれちゃったんだろう、いやだなぁ」

なんて罰当たりなこと言ったら、本当に、バチが当たって、

そんなことに、そんな世界になっちゃったら、どうしよう・・・

ほんとは、そんなふうに、っていうか、そこまでいやだなんて思ってないのに、

だって、いいこともいっぱいあるし、楽しいことも、

よろこびやしあわせも、いっぱいいっぱい、あるのに・・・

あー、なのに、なんでこんなこと、こんな偏ったこと言っちゃったんだろう、

撤回撤回!

神様、そんなことありません!与えてくれてるものにめっちゃ感謝してます!

だからお願い、嫌な世界にしないで〜〜〜”


恐れ、だ。これは。


書きながら思うのだけど、「神様」っていう言葉にも、わたしは違和感がある。

何それ?って思っている。

だけど、瀬織津姫さまとかは、瀧川神社の御祭神だからご縁が・・・

とかも思ったりする。

ほんと、矛盾しているよね。都合がいい、よね。


なんだろうな・・・


今日のテーマ、なのか、

唯一無二の絶対的正解が欲しいわけじゃない、

と言うってことは、欲しい自分も居るのだろう。



唯一絶対、みたいなものが嫌いなんだ。

なぜか?


それ以外は、NO。間違っている。認められない。から。

それって、おかしいでしょう?

なんで、誰かの唯一の基準で、勝手に決められなきゃいけないのよ、
うるせぇな、ふざけんな、って思っている。

自分以外の誰かに、何かを勝手に決められた、決められている、
と思えると、ものすごい何かが湧いてくる。

これは、何だ?何の感情だ?

煮えたぎる、とか、それこそ燃え盛る、みたいな・・・

憎悪、か。


そして、なぜか、「迫害される」って出てくるから。


唯一無二の絶対的正解や正しさ、みたいなものは、

それ以外を、認めない。

その事を、「迫害」と言っているのだろう、自分の中で。


自分自身は、迫害された記憶、心当たりって無い、のだけど・・・

何なのかな。気になるね。


恐怖と憎悪。


憎しみはあるけれど、敵わない、楯突いたら何をされるか分からない、

だから黙って従っているように見せるしか無い、

自分を、自分の生命を、時には、大切な何かや誰かを守る為に。

とてつもなく不本意だけれども、そうするしかない、生き延びる為には。

だけど、そんな自分が不甲斐ない。申し訳ない。

何がどうなったって、『自分の本当』を貫けたらいいのに、表現できたらいいのに。

なのに、それをしないなんて、保身じゃないか。体裁ばっかりを気にして、本当の自分を、押し殺して。自分に申し訳ない。

そんな自分が憎らしい。そんな自分を憎んでいる。許していない。

そうだね、殺意、もあるね、ここには。

自分に押し殺されている自分が、自分を押し殺す自分に殺意を抱いている。

やられたらやり返す、目には目を・歯には歯を、なのかもしれない。

だけど、それが出来ない自分なことは分かっているから。

なぜなら、その自分を殺してしまったら、

自分で手にかけなくても、その自分が死んでしまったら、

自分も生きていけない、死んでしまうことが分かっているから。

結局、相手を(自分を押し殺す自分を)殺せない、それは自分を殺す事になるから、が分かっているから、

殺意混じりの憎悪(怨み) を抱えながら、その対象である自分と一緒に生きていかなきゃならない、

そこには、苦悩や絶望感、不信感、屈辱感、もあるかもしれないな。


”なんで自分を殺すようなこいつと一緒に生きていかなくちゃいけないんだ?何の拷問なんだ?自分が何をしたって言うんだ?なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ?存在を無い事にされる、しかも、本来、一番、誰よりも何よりも信頼し合って生きるべき『自分自身』に殺される、存在を無い事にされるなんて、何なんだ?どういうことなんだ?なのに、こいつからは離れられない・・・そして、どんなに疎ましくても殺したくても、こいつを殺す事ができない・・・なんて忌々しい・・・”

で、憎悪が募る、んだな。自分に対して、よ?


そして、また出てきてるね。

存在を無い事にされる、しかも、本来、一番、誰よりも何よりも信頼し合って生きるべき『自分自身』に殺される、存在を無い事にされるなんて、何なんだ?

この話。

何にせよ、有るものを無いことにする、見ないようにする、認めない、

のは、かなしい、さみしい、事なのかもしれない。

かなしい、は、「失う」に紐づく感情なんだとか。

「失う」は、拒絶反応が出るワード。

こわい。恐怖を感じる。



だから、「有る」を生み出さなければ、「失う」は無い、

なぜなら、はじめから「無い」のだから、と思っていた、けど、

違ってるのかも。。



すでに有る、なのに、無いことにしている、は、

自分の内側で「失う」を生み出している。

失われている。いつの間にか。知らず知らずの内に。



だから、かもしれない、「失う」に拒絶反応があるのは。

この事に、気付きたいから。



” いつまでも、失くさないで。有るものを、無いことにしないで。”

っていうメッセージなのかも。

そうか。

そうかもね。



ありがとう。


『保身』のために自分を殺す自分に、行き場のない憎悪を募らせている自分がいるのかもしれない、わけだけど、

根っこにあるのはシンプルに、悲しみ、かもしれない。


そして、この自分には、「自分なりの正しさ」がある。

存在を無い事にされる、しかも、本来、一番、誰よりも何よりも信頼し合って生きるべき『自分自身』に殺される、存在を無い事にされるなんて、何なんだ?


自分と自分は、誰よりも何よりも、信頼し合って生きる『べき』


なのに、なぜ、その自分からこんな仕打ちを受けなくてはならないんだ・・・

ってショックなんだよね。自分は信頼されてないのか?って。


だけどね、『保身』のために、自分を殺している自分の視点は、またちょっと、きっと違っていて。

”守りたい” んだよ。

信頼してるとかしてないとか、そういうことじゃなくて、そんなところは見てなくて、見えてなくて、

『保身』をとる自分にしてみれば、もう一人の自分は大切なんだ、だって『自分』なんだから。一心同体なんだよ。

その自分が、表に出て、主張して、もし仮に、万が一、メッタメタになったら?

目も当てられない、見たくない、んだよ。そんなシーンは。


他者に自分を傷付けられる、という事は出来ない、と思っている、そう解釈しているのだけど、

『保身』の自分にしてみると、きっと、そんな視点もなくてさ、

なぜなら『保身』だからね、 ”守りたい”っていうことは、

守らなきゃいけないと思う対象がいる=敵がいる、自分(達)の身を、生命を脅かす他者が在る

と思っている、ということになるのかもしれないから。

だから、見えないんだ。傷付けられる、なんて事は無い、起こりようが無い。のかもしれない、っていうことなんて。

必死、なんだよ。守る事に。自分だけじゃなく、一心同体の自分達も。


それが、その自分の役割、で、そこには、その自分なりの「正しさ」がある。

そして、その自分だからこその「視点」があって、だからこそ、見えないものや所がある。


・・・そう捉えてみるとさ、健気、だよね。

そんなに怖がらなくても敵なんていないよ、って思うけどさ。

見えないんだから、しかも、必死に、自分と、一心同体の仲間(自分)を守ろうとしてるんだから、

・・・なんかもう、すきにさせてあげる、しか無い気になってくるね。


いつか気付けばいい、いつか、「あっ、もうやらなくていいんだ、これ!」ってなるのかしれないし、

それはもしかすると、その自分にとっては「死」を意味するのかもしれないから、ずっと気付かないとか、気付かないふりをし続ける、のかも?

・・・とか言いながら、ここで気付いちゃってるけどね。

まあ、いいか。

把握している、ということは大事、かもしれない。

相手を(自分を)どうこうしようとするのではなく、

=コントロールしようとせず、

ただ、「そうなんだね。」って知っている、見ている。


それだけでいい、のかも。


コントール、って出来ないしね?

しているように、出来ているように「見せかける」事は出来るかもだけど、

っていうのと同時に、コントロールしようとする、していると思っているっていうのは、ミイラ取りがミイラに、じゃないけど、

同時に、コントロールされてる状態、みたいになってくる、なっちゃうのかもしれなくて。

恐怖によってコントロールしようとすると、恐怖によってコントロールされているような状態になる、かもしれない。という事で。


だから、No control.  

つまり、「委ねる」なのかも、ね?


ただ、「委ねる」って、する事、なのかなっていう疑問は、ふと湧いてくる。

委ねる、の時点で動詞だからね、する事(行為)とは言えるのかもしれないけど。

なんか、違和感で・・・

「委ね」にしたら、名詞になるか。


それも、元々備わっているもの、なのかもしれないなって。

だからもうすでに、勝手に、発動している、つねに、っていうことでいいのかも。


意識する、っていうことは、分離、だから。

それがいいわるいではないのだけど。

意識するから、剥がれて、見えてくることもある。

これがきっと、気付き。

意識するから、剥がれて、却ってわからなくなることも、ある、かもしれない。

その「わからない感じ」がまた、面白かったり楽しかったりする、のかもね?

だから、敢えてやってる、無意識に、とかね。

あるかも? ないかも? どうかな。


=追記=

No control. っていう言葉に違和感・・・書いておきながらね。「頭にくる」なぁ。腹が立ってるとか怒りが、ではなくて、頭が締め付けられる感じがする、というか。



*「感情」についてはこちらが参考になるよ。



↓こっちのほうに細かい説明がある「感情」もあるよ。よかったら見てみてね。


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