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初めてのnote。ごめんと感謝!

東京で劇団の座長をやってる長男から、noteを始めるから、家の事色々書いていいか?と連絡が来た。

note???そりゃなんだ?

宮崎の片田舎に住み、還暦も既に三年も超え、パソコンもスマホにもうとい私は、別にいいよ〜、うちの事知ってる人いないだろうしと簡単にOKした。

投稿したからって連絡があり、なんとかスマホを駆使してたどり着き読んでみた。

スゴっ!おもしろい。息子が、やっぱ、もう少しオブラートに包んだほうが良かったけ?と言ったが、イヤイヤ、オブラートに包んだら面白くない、そのまま書いていいと、許可してしまった。

他の人のも色々読んでみると、涙流して大笑いしたり、心から感動し涙したりと、夜がふけるのも忘れて読んでいた。翌日は寝不足で一日ボーッとしていたが。

文章はすごい。その人の気持ち、想い、心に突き刺さってくる。

そして無謀にも、私も書いてみよう!と思ってしまった。それも、初めてのnoteで、キナリ杯にだ。岸田さんのnoteを読み、兄弟の気持ち、母親の気持ちにすごく共感してしまった。

昔から文を書くのは嫌いではなかった。高校時代は、恋のポエムなんぞも授業中に書いてたりした。1960年70年代。フォークソング全盛時代。あー昭和だ。

大学に入ると、学業もおろそかに遊んでばかりいて(子供にはあまりしられたくないが)文章からは遠ざかっていった。結婚後も初めは子育てに追われ日記どころではない、毎日が戦争だった。

だが、3人目の次男が障害を持って生まれ、その中で3人の子育てに悩み、疲れ、ストレスを発散させる場所を探していた。

次男の成長記録などを含めて、また日記の様なものを書き始め、書くことが心の安定につながった。

夫は子煩悩で、3人ともとても可愛がってくれたが、なんせ家にいない。ひどい時は週4回の飲み会は当たり前。3人のお風呂など、私は裸で走り回っていた。

その姿を思い出すと目をおおいたくなる。

もちろん次男の世話は大変だったか、それにも増して長男にはてこずった。世の中、三人兄弟の真ん中は変わった人が多いと言われてるらしい。うちの長男はそれに三重くらい輪をかけて扱いにくかった。

気持ちはわかる。生まれた時にはすでに姉ちゃんがいて主役になれず、かわいがってもらいたい時期には弟が生まれたのである。それも重い障害を持って生まれてきたので、もう長男の出番は、まったくといっていいほどなくなってしまったのだ。

今思えば、ほんとに可愛そうだった。僕を見て!と心の中でいつも叫んでいたのだろう。自分でもnoteに、不貞腐れ視野狭野郎と書いている。後に自覚していたことがわかったのだが。

私は結婚前、福祉系の大学を卒業し、障害者施設で働いていたので、次男が生まれた時も割とすんなりと次男の障害を受け入れることができた。まあ、その後どんな苦労が待ってるのかわからなかったのもあるが。

母親の私としては、岸田さんのお母様と同じで、三人同じように愛情を注いで育てたつもりだった。ただ次男に比重がかかるのはいたしかたない。入院も多かったし、私は疲弊していったのだろう。毎日の戦いの中で自分の心を落ち着かせる為に日記に気持ちをぶつけていた記憶がある。

とても人様には読ませられない事も書いてあったと思う。でも、それで助けられていたのだ。

何年か前に長男が、舞台の参考したいというので、久々に日記を取り出した。記憶が蘇ってきて泣いてしまった。あの頃がんばってたなあ。

ん?あの日記どこ行ったん、探してみなければ。

長女は三歳まで両親の愛情をいっぱいに受けて育ち、持ち前の明るさもあり元気ないい子だった。

ただ次男が生まれ、疲弊していく私を見て、自分がしっかりしなければ、と5歳にして思ったのだろう。どこに行っても、誰にでもしっかりしてるねえと、ほめられていた。馬鹿な母は、娘のほんとの気持ちも知らず、自慢の娘だと思っていた。でも、それなりにがんこで、私との衝突も結構あった。女同士は親子でも難しい。

そんな長女も親元を離れ、大学に行ったらタガがはずれたらしい。友達がいうには、おばちゃん、ゆっこのどこがしっかりしてる?一番あてにならんよ、だと。鹿児島に行き、飲ん兵衛にもなった。一升瓶を抱えておぶわれてアパートに帰った事もあるらしい。

こんな事書いて良かったのか?娘も覚えてないだろう。何よりも、婿殿、昔の事である。目をつぶってくれ。家を出して、本当に良かったと思っている。

今ではアラフォーになり、忙しい婿殿と二人の子供を育てながら、大学時代に取った資格を活かして、毎日が勉強だ、と頑張っている。

私の一番の相談相手であり、頼りにしている人だ。

長男は、高校時代も色々とやらかしてくれ、大学受験にも失敗し、上京して行った。

まさか芝居の世界に飛び込むとは思ってもみなかったが。

一番印象に残ってるのが、20歳の頃だったか、私にポツリと言った事がある。

「おかん、俺ってあつかいにくかったやろ?寂しかったんよね」

「は?、、、」さすがに言葉が胸に突き刺さり泣いてしまった。でもその時思った。

ああいい子に育ってくれたな、と。母親に直接、こんな気持ちを言えるなんて、自分の中で辛かった時代の事とか消化できて、大人になったな、と。そこで馬鹿な母は、私の育て方は間違ってなかったと、胸を張ってしまったのである。

今は好きな事をみつけ、悩み傷付きながらも東京で頑張っている。たくさんのいい人達に恵まれ、やっと、やっと10年越しにいいお嫁さんも来てくれた。みきちゃん、良太のとこ来てくれてありがとね。

でも、不貞腐れ視野狭男の片鱗はどこかに残ってるはずだ。嫁さん、気をつけろ!

子供達が家を出て行くと、寂しく寂しくてたまらないと言う人がいるらしい。

なんで?なんでなん?と私は思ってしまう。

長女が大学に行った時、駅で別れて、少し泣いた。が、あ、ひとり減ったと思ったのだ。まだ、不貞腐れ野郎良太と次男の昭太がいるので、すこーしだけ羽を生やした。

二年後良太が上京すると、私の背中に大きな羽がはえたように気軽になった。ただ、気軽になりすぎて、5Kも太って、羽がはえても飛べなかったが、気持ちはフワフワと飛んで自由だーと叫びたいほどだった。

昭太はしょうがない。この子は一生私と暮らすんだなと思っていた。ただ、私は昭太も、姉ちゃんや兄ちゃんと同じように、俺も一人暮らししたいなあと思ってるかもしれないという気もしてた。そこには私自身も昭太と離れたいという願望があったのかもしれない。

ところが、三年前に昭太の通っている事業所がグループホームを立ち上げた。全国でも珍しい重度の子供達のグループホームだ。全個室、24時間介護付き。なんとすばらしい。

事業所の方々の努力によって実現した。ほんとに感謝しかない。土日は帰って来るが、私はやっと30年の重みを離すことができた。

入所の日、グループホームに入る10人の家族で、夕食を一緒にとり、各部屋へ。誰も帰ろうとはしない。なんせ、親元を離れた事のない重度の障害のある子を手放すのである。

やっと区切りをつけ、重い腰をあげて、じゃあね、っと昭太に声をかけると、昭太はバイバイと手を振り、別れはあっかなかった。

夫は飲んでいたので必然的に私が運転席に。

でもその時、私に思いもよらなかった事が起こった。声をあげて泣いたのだ。後から後から涙が溢れ、運転どころではなかった。

昭太、ごめんね、ごめんね、と。15分くらいだったたろうか。グスングスンいいながら帰った。そんな私だが、その夜グッスリ眠ったのだ。

しかし、昭太を手放した事に少なからず罪悪感があった。そんな私の気持ちを軽くしてくれのが、友人の言葉だった。

あんたさあ、30年も頑張ってきたやん。そろそろ肩の力抜いたら?持つべきものは友だ!

そして、薄情な母にはさらに大きな羽がはえてしまった。


「お父さん、この日家にいる?」と聞かなくても出掛けられるようになった。昭太も、今では、私から離れたかったんだな、と思えるほどせかんどはうすでの生活に慣れ、まるで家のように(ある意味、家よりも)楽しく過ごしている。

でも、土日に帰ってきた時、土曜日の夜は母を寝かせてくれ。noteを読んで寝不足なのと、あなたにしょっちゅう起こされるのでは疲れ方が違うのよ。

母をこき使ってるのか?まあこれも、家での楽しみなのかと半分あきらめている。

言葉も話せない重度知的障害があり、心臓も2弁置換して、人工弁2つも入れる手術して、もうだめかと思ったけど、4ヶ月の入院で無事に帰れた。

安心してせかんどはうすでの生活を楽しんでたのに、先天性の緑内障と、珍しいコーツ病という目の病気で去年の7月には全盲になってしまった。

傍から見たら、なんとかわいそうな、と思われがちだが、(イヤ、確かにかわいそうなのだ)昭太は頑張っている。その都度、その状況に慣れるように努力しほんとに頑張っている。事業所やグループホームの職員の方々のものすごい努力や支援もあり、私の元を離れ暮らしている。職員の方々には感謝してもしきれない。

重度の障害をかかえていても、みんなに可愛がってもらい、みんなの癒やしになっているという。昭太はすごいのだ。

大変な人生だけど、悪い人生じゃないよね。お話できないから、どう思ってるかわからないけど、母はそう信じてるのだ。母はあなたが笑顔で暮らせるならそれでいい。

子供達には私に不満はあったかもしれない。でも、私は、わたしのキャパの中で、精一杯やってきたと自負している。だから子供たちが家を出て行っても寂しいと思うより、ホッとして羽もはやせたのだ。と馬鹿な母は思っている。

ん?旦那さんの事がちっとも出てこない。家にいなかったひどい夫だったのか?

いやいや、いいお父さんです。40年近くも連れ添ってると、まあ色々あるけど、この三人の子供達をわたしに授けてくれた事、とても感謝している。

もう60歳を何年も過ぎた身。あと何年自由に動けるだろうか?

この自粛の時代が過ぎたら、家族という糸は切れずに、縛られることもあるけど、誰かの妻、母ではなく大きく出る羽を広げて、自分の人生を生きていきたい。

あ〜!早く東京に舞台見に行きたい!

#キナリ杯

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