見出し画像

絵画作品の下絵、フリーダのスローガン、二人のフリーダの由来(フリーダ・カーロの日記#19)

Stable Diffusionより(イメージ画像)

1949年の絵画 『宇宙、大地(メキシコ)、ディエゴ、私、セニョール・ショロトルの愛の抱擁』 を制作する前の1947年、フリーダは下絵として日記に大まかな構図を描いています。太陽と月(アステカ神話の陰と陽)に二元化された宇宙神が大地(メキシコ)の女神を抱擁し、大地の女神はフリーダを、フリーダはディエゴを抱擁するという構図はほぼ同じですが、絵画に見られる詳細に描きこまれた木や根、ディエゴの額の第三の目、愛犬のショロトルは、ここでは描きこまれていません。

The Embrace: Diego Rivera and Frida Kahlo: Poems by Carolyn Kreiter-Foronda, San Francisco Bay Press, 2013


その後1947年の8月から11月の間には、”狂気”について、緑のインクで書かれたテキストが続きます。1946年にニューヨークで受けた脊椎接合手術の後遺症から、大量の鎮痛剤の服用が欠かせなくなり、日記の文面も滲んで乱れたものとなっています。

1947年11月には、ピンクのインクで書かれた「希望の樹よ、しっかり立て!」のフレーズ。これは1946年の絵画作品『希望の樹』に書き込まれたものです。メキシコ中部のベラクルス地方の歌の歌詞の引用で、この言葉は彼女のスローガンにもなっていました。前述したように、ニューヨークで受けた接合手術以降、回復したように見えたフリーダの背中の痛みは悪化していました。鎮痛剤のデメロール投与による幻覚症状、痛み止めが効かない苦痛の日々。しっかり前を向いていこうとしながらも、「ディエゴ、私はひとりぼっち」と本音の言葉を日記に漏らさずにはいられないのでしょう。

そして1950年、1939年に描いた絵画作品 『二人のフリーダ』 の由来ともなる、幼少期に遊んだ空想の友だちについて、フリーダは日記で4ページにわたり丁寧に書き綴っています。6歳で小児麻痺を患い9ヶ月間病床にあったフリーダは、34年が経った1950年、再び9か月間病床にいて、空想の友だちと時間を共にした思い出を回想しながら原点に立ったのかもしれません。このテキストは、青いインクで書かれた後、茶色のインクでさらにはっきりと重ね書きしています。この内面の告白は、彼女にとってそれほど重要なものだったのでしょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?