第68回短歌人賞佳作「壊れるまでは」
石けんを泡立てる間も刻々と死に近づいてゆくからだあり
身のうちに雨雲を飼ふことなどもたれに告ぐるとなく過ぎて来つ
寝室に時計は置かず秒針の音がこはくてこはくてならぬ
真夜中に起きてのむみづ食道をつめたくとほりすぎてゆくなり
この朝にめざめて捧ぐあたらしき日に感謝するみじかき祈り
鳥たちの声が聞こえて少しづつ窓のまはりが明るくなつて
でも今日も遠く近くに打ち寄せる流行り病や戦の知らせ
一度づつ僅かばかりの寄付をして忘れむとするいくさもなゐも
殺害のニュース流るる室ぬちは百合の香りにみたされてあり
知りたくない考へたくないみづからのこころを守ることに執して
皮膚いちまいのことと思へばおろかなれど朝夕べに鏡を覗く
雨の日を傘さしてゆく美容室「虹」といふ名の白きたてもの
看板に虹ゑがかれてスタッフはふたりきりなる小さきサロン
おほき手にあたまの向きをなほされて正しい位置はここかと思ふ
耳のまはりに鋏の音はして耳に美容師のゆびそつと触れたり
帰るさは雨やみてをりほんものの虹みゆるかと探す 見えざり
美白とふ考へかたは差別的さはされど買ふ美白美容液
百貨店地下にぷちぷら化粧品売場のありてときをりをゆく
物質のひかりあふるる百貨店地上階にはゆくこともなし
テレビジョン何か叫んでたまきはる命の糧の値があがりゆく
歌集はもう出しませんお金がないからと言ひきりしのち揺蕩ふ心
これの世をけふ立ち去らば書きためたる短歌ノートも未整理のまま
紙の本電子の本と呼びわけて紙が好きなり嵩はあれども
短歌から離れし折に手放してしまひし本の夢をまたみる
何ゆゑに勤めないかと訊かれてはただ曖昧に微笑んでをり
いい身分だねと言はれてゐるやうな気がしてしまふことにも慣れて
就労を医師に制限されてゐることはいちいち説明しない
元気さうだねと言はれて元気なりさうでなければ出かけないから
書くことも読むことさへも出来ざりし五年を思へばいまのしあはせ
いつまでもつづく幸せなどあらず壊れるまでは大切にする
※「短歌人」」2023年1月号掲載 冨樫由美子
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