見出し画像

いい人になりたい

夢について、いろいろ考えてみました。
ある方から、具体的にこんな仕事をしたいとか、年商いくらとか、何人を救いたいとか、そういうビジョンを明確にすることが大切だと言われました。

いくら考えても、そのようなビジョンは浮かんでこないのです。
自分の貧困な想像力では、今の仕事や自分の延長線上のことしか浮かんできません。

年齢を言い訳にはしたくないのですけれど、今から新しい事業を起こして、銀行と交渉して、営業をして、というのは正直やりたいとも思えず、私の夢というのは何なのだろうと腕組みをして唸っています。

人を応援することなら出来ると思うのです。
自分が何かを立ち上げるというよりも、スタートアップでまごついている人の力になったり、自分が何者かわからないような人の話を聞いたり、私の経験や何らかの微力が役に立てたらいいなぁとは思います。

私は自我の星をいくつか持っていて、それがこれまで良くも悪くも作用してきたように思います。
人生の残りの直線に差し掛かろうとしている今、その自我をいい感じに昇華させて、何かの誰かの役に立てたら、私の自我も喜ぶだろうと思うのです。

私はどうやら「いい人」になりたいみたいです。アメニモマケズのでくのぼうのような、存在自体が愛の人になりたいみたいです。

散々自己中心に生きてきて、この先は何をしたいのかと自分に問うたとき、もう少し地球や人の役に立つ人間になりたいと思いました。

最期は絶対に誰かのお世話になって、焼いてもらわなければならないので、その少し前までは誰かの役に立って生きていきたいなぁと、これがささやかですが、私の夢なんではないだろうか。

この先の世界、物質ではなくて氣=愛、勇気、励まし、感謝が循環することが必要だと言われています。
物質や肩書きでは幸せになれないことを、人類は気がつき始めています。
当たり前のようでいて、有難いことが大切なのだということを、私も気がつき始めています。
モノを捨てて捨てて、捨てまくっても、捨てた量に比例するように自分の幸福指数は上がっています。幸福感度と言ってもいいかもしれません。

誰かの役に立ちたいとか、動物保護や環境保護に過激にならない程度に関わりたいとか、これさえもエゴを満足させるための他者貢献なのかもしれないけれど、今の自分を超えてみたいと思うのです。

自己超越というのは、今の快適を手放して、さらに高みを目指すことだとやましたひでこに教わったことがあります。
今の快適を手放すというのは、何も出家するとか、全財産を寄付するとか、自己犠牲とかそういった意味ではなく、今のぬるま湯から出る時期が来たよ、ということなんだろうと解釈しています。

大昔、真冬のトマムのプールのジャクジーに入って、外に出られなかったことがあります。外に出たら、心臓麻痺でも起こすのではないかと思われるほどの寒さでした。北海道舐めんなという声が空耳に聞こえてきました。

真冬の北海道の夜、水着一枚の濡れた身体で、屋内まで30メートルほどを駆け抜けたあの日を思い出しつつ、どんな自己超越ができるのかを考えたいと思います。

子どもはもう大人だし、年金もいただけているし、借金もありません。
有り余る財は持っていないけれど、健康には恵まれています。
愛と体力で、さて何をしようか。

今日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?