タイムスリップ

『タイムスリップ』昔の漫画に出てきそうなフレーズが自分の生活に入り込んできたのは、この住まいに越してきてからだ。



郊外で育った私には、一軒家よりマンション、車より電車、遊具よりゲートボールが日常生活の基盤だった。一軒家に住む友人は常に少数派で、それは裕福さの象徴になり得るものだった。家族で唯一車が運転できるのは父だけだった。何度もペーパードライバーを卒業しようと練習に励んだ母の後ろ姿を見て育った私は、20歳で免許を取ってから立派に母の後継者となった。近所の公園は大きい方でも校庭の5分の1くらいで、その窮屈さと少しの遊具しかないことを申し訳なさそうにベンチが一つか二つあるくらいだ。大きな木が一つあれば立派な方だ。道路に囲まれているから、ボール遊びは基本出来ない。ゲートボールだけはできるよう、地面は草一つなく平らにならしてある。

都市への通勤に便利だからという理由で卒業後も実家に住み続け、郊外よりさらに高く洗練された建物の中へ身をすり込ませる生活を受け入れた。いよいよ実家を出る頃には、冷淡な建物や、鈍い空気の押し込まれた電車が自分の居場所になっていた。その後も生活の場所に選んだのは都市だった。それ以外の選択肢すら思い浮かばなかった...4年前までは。


4年前、職場の変更に伴い住む場所を変えざるを得なくなった。
それは人口約6万人ほどの「街」だった。慣れ親しんだ人口50万人の郊外ではなく、建物と電車が巧妙に折り込まれた都市でもなく、周りを山々に囲まれた、そのあたりでは比較的大きな「街」だった。
駅を降り直進すると両手を大きく広げたような広場が出迎えてくれた。燦々と降り注ぐ太陽を全身に受け、優雅に水しぶきを撒き散らす噴水を軸に、どっしりとした幹を持つ木が等間隔に並んでいる。広場の向かいには山脈から流れ着く間に膨れ上がった川を挟んで、岩片のような切り立った山がそびえ立っていた。どうやら私はこの街に住むらしい。無機質な郊外や都市の中に心地よさすら見つけていた私には、明らかに場違いな街だった。

最終バスが夜8時の街では、車移動が軸である。街に突き付けられた新しい生活基準に精一杯の抵抗を知らしめるために、母譲りのペーパードライバー精神を生かして、徒歩圏内で生活を成り立たせることにした。住まいは駅から徒歩20分、職場からは徒歩3分、スーパーと銀行が近い、住宅地の中では際立つ8階建てのマンションに決めた。あとはインターネットさえあれば生きることはできる。
住まいの5階から見える景色は、どんなに高くても自分と同じ目線が天辺のマンションと、合間を縫う一軒屋の群だった。その奥がさらに厄介だった。また山が見えるのだ。遮る建物のない空は広すぎる。一体私は異次元にでも迷い込んでしまったのだろうか。応急処置として、窓から飛び込んでくる山と空によそよそしくした。

いつまでも街の圧力に屈してはいられない。私は近所を偵察することにした。調べてみたところ、スーパーと銀行以外に広そうな公園が二つあった。住宅地の中の公園に何も期待してはいけないことは幼少時代に学んでいたが、山の見える街は何か違うのだろうか。未知への警戒を解消すべく、私は公園に向かった。

一つ目の公園に着いて、立ち尽くしてしまった。
一面に広がる芝生を囲む大樹を見上げると、生い茂った葉に共鳴するように空はより青々しくなった。犬と子供たちは公園中を全力で走り、その傍では母親であろう女性が日の光をたっぷり浴びながら目を細めていた。老人たちは木陰で世間話に没頭している。寝転ぶ若者がベッド代わりに使うベンチを見て、郊外の公園にしょんぼりとたたずむそれとは同じ名前でも用途が違うことを知る。その公園は、郊外の住宅地に存在する名前だけの場所ではなく、人々の生活の一部へと放たれた、親密さと雄大さを堂々と備えた場所だった。あっけにとられてしまった。これはもう偵察ではなく、新しい価値観の創造である。
動揺を隠せない私は急ぎ足でもう一つの公園へと向かった。5分ほどしか離れていないにも関わらず、活気ある住宅地から引き離すように人気のない道へと誘うGPSに違和感を感じた。車の音が遠退き、空気は冷ややかさを含み始めているように感じた。知らない街だ。引き返した方が良いのかもしれない。それでもしっとりとした手で携帯を握りしめながら足を進ませた。住宅地にも裏があるとしたら、まさにそこが公園の入り口だった。側にたたずむ廃墟の落書きが、唯一の人の気配だった。
小さな看板に調べた公園の名前が書かれていた。都市以外でもGPSは正しく起動していた。しかしどう見ても雑木林の入り口にしか見えない。コンクリートで舗装された道は途絶え、芝生の代わりに野生の植物が通る道を示していた。その上を木々が覆い、空は木漏れ日から垣間見えるだけだ。子供たちの笑い声の代わりに、風が葉を揺らす音が耳に流れる。
自然を人が通る分だけくり抜いたようだ。植物や虫が生活を営む空間にお邪魔するような気分だ。ベランダから見える山や空によそよそしくしていた私は、今逆の立場になっている。部外者として取り込まれるように歩を進めた。

川のせせらぎが聞こえ始めた。少し進んでその姿を目にした時、突然空間が開けた。変わらず空は隠されているが、小川の脇に道が続いていた。ランナーが目に映った。ここは公園なのだと、ようやく悟ることができた。
川藻が小川の流れと合わせて揺れていた。もう少し近付けば魚も見えるのだろう。だが野生の植物はどんなルールで生きているのかわからない。そばに寄ってうっかり足を滑らせて怪我をすることは、新しい職場に移ったばかりの私がすることではない。示された道に従って進むのが、今のところは賢明だろう。
木漏れ日にぬくもりを感じ始める。日の光を思い切り浴びるより、木の葉のおこぼれをもらう位で人は丁度いいのではないかと思う。ほっそりとした蜘蛛の巣が顔にへばり付いたかと思えば、虫が耳元で騒ぎだす。ぬかるみのある道は注意を怠れないし、ひょっこり顔を出した石に何度もつまずいて転びそうになる。進むにつれて、肌に寄り添っていた木漏れ日は少しずつ遠い存在となっていく。それと比例するように、五感を総動員しながら、一つ一つの空間の移り変わりに心を近付けていく。
自然の一部に溶け込んだような感覚は、廃墟の落書きが視界に戻ることで終わりを告げる。人気のない住宅地へと戻っていく。コンクリートの道は無愛想で、家の庭に秩序よく並べられた色とりどりの花は人工的に見える。車とすれ違う。さっきまで蝶の飛ぶ速さの中にいた私にはタイムスリップ並みの速さだ。そうだ、私はまさにタイムスリップしていたのだ。



嫌なことや辛いこと、自分では手に負えない感情を持つとその公園へ行くようになった。自然の営みの中に身を置くことで、それらは取るに足らない感情なのだと自分の中に落ち着かせられるようになったからだ。新しい生活がひと段落してからは、彼らの営みの中を走るようになった。自分の吐息を自然の中に感じることで、彼らと上手く付き合っていけるような気がした。新しく出来た友人へタイムスリップして会いに行くだなんて、ちょっとくさいセリフを言いたくなるくらい心惹かれる公園が、私の住まいの近くにはある。そんな初めての人生の選択肢を楽しんでいる。

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