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ハローグッバイ

川沿いにある枝ぶりが見事な桜の木。

満開の頃は、散歩途中の人々が立ち止まり、写真を撮ったり、笑顔で挨拶したりして、ちょっぴり賑わう場所です。

私も散歩がてら、手の届く枝に小さな桜の花の毬を見つけては、いつも声を掛けて撫で撫でして一人楽しんでいました。←かなり怪しい人ww

花が終わりに近づいて、散り行く花びらにサヨナラ言う人、また来年が楽しみだねと言葉を交わす人々、、、

そして今は誰も足を止めることなく、そこにいつもある風景になってる桜の木。


この地球に生きる動植物は、毎瞬、毎瞬、今この時も状態が変化していますね。

植物の成長を見ることの出来るタイムラプス映像の様に、ゆっくりとしたスピードで、知らないうちに状態がいつも変化しています。

だから、散り行く桜の「グッバイ」と同時に、次への新しい「ハロー」がいつも同時にそこに存在しているのではないでしょうか?


それには、目には見えない内側の細胞達の変化があって、それは植物だけではなく自然界全てのもの、私達人間にも、変化という意味では人工物にも当てはまるのかも。


この瞬間も身体の中の全ての細胞が動き、時に流動的に変化している・・・いつも愛に溢れてる細胞達が「私」無しで・・・



そうしてみると、全ては始まりも終わりもない、ただ状態が変化していくだけのことで、そして実はそれが一番自然で、完璧な流れ・・・。

永遠を生きている不思議な感じさえ覚えます。


うまく言えないけど、もしそうなら、「私」が前にしゃしゃり出て行って頑張らなくていいし、もう何も探さなくていいし、何かにならなくていい、なんていうか、流れにお任せでいい「気楽さ」を感じます。


心臓を動かし、呼吸をして、太陽が昇り、沈み、その恩恵に預かり、いつの間にか季節が変わって、生かされている。
そんななんともアメージングな、宇宙全体が思いっきり関わっている複雑系の「一部」に、もう既になっちゃってる。

なんか、当たり前過ぎて、シンプル過ぎて、気がつきにくいのかも。


昔の私はそんなイメージ持てなかった。

特に、「自分人生劇場」を一所懸命生きている時なんかは。

だってその台本は、常に頭の中に思考が出て来て不安を煽り、「私」を発動させ、あたかも選択や決断をしている体を装う、あまりにもリアルに感じるシーンばかりで、そっちに一生懸命になっちゃうから。

人それぞれの台本なのでわかりませんが、私の場合は思考が薄れ始てめ、「あ、これ思考劇場やってるな」って客観的に気づくようになったあたりから、「あぁ、なぁんだこんな単純で、いつも目の前にあったこれの事だったんだなぁ」と、安心感で全体にすべてを委ねて、ただ現れとして実在を見るようになりました。

自然界と私の間に何もなくなり全体になる感覚。

そんなことを、桜の木を見上げながら感じました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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