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田口ランディ ハチロクに思う

ハチクロ?聞いたことがある言葉だ!   思い出した!「ハチロク」だ!
ちなみにハチクロは

田口ランディ

何年も前、十何年も前、
田口ランディにはまっていた時期があった。



「ハチロクに思う」全文ドキュメントにコピーし保存してあった。
ブログから? 探したらあった。2009/8/5



2009/8/12 にパソコンに取り込んでいる。上記に全文出ている。
後半の一部分


「なるほど。でもね、私はこう思うんです。どんなに他人を欺くことはできても自分の心は欺けない。人を殺したら、殺した本人が一番わかっているんです。自分のやったことを自分はすべて知っています。だから、他人が裁く必要はないんですよ。本人が自分を裁きます。自分を裁けるのは自分だけなのです。私はそう思っています」
「自分を裁けるのは、自分だけ?」
「そうです。どんなに他人をごまかしてうまくやっても、最期の最期には自分がすべて知っているのです。どんな生き方をしたか、どんなことを他人に対してしてきたか、すべて自分がお見通しなのです。それをごまかしていても、死ぬときにはすべて思い出しますから。だから私はそれでいいと思っているんです。なにをやったか、自分がすべて知っているのだから、その人は自分で自分を裁くでしょう」

 私はそのあとずっと、この時の河野さんの言葉を反すうして生きてきた。考えれば考えるほど、重い言葉だと思った。それは楔のように私の心に打ち込まれてしまった。私は日々、歳を重ね、いわば日々、死に向かっているわけだけれど、そう思うと、自分のやったことはすべて自分が知っているという言葉は恐ろしく、そのまま自分の生き様に返って来るのだった。そして、確かにこの言葉を噛みしめるようにして生きていると、私は私がなにをしたかを自分に問うしかないし、人は人であり、その人がなにをしてもその人しか真実は知らないし、自分を裁く者は自分しかない、という現実に圧倒されるのである。人間は自分を律して生きるしかないのだ、という河野さんの人生観は強靱だった。日々をどう生きたいかはその人が決定する。自分は自分の生きたいようにしか生きないものだ、河野さんはそう言った。
 ぐちと不平で生きるのも、感謝と自愛で生きるのもすべてその人次第。環境には関係なく、人は生きたいように生きる……と。

 なんと冷徹な人生観と思った。その通りなのである。どのような逆境に立たされようと人間として自分が生きたいように生きる。生きた。それが河野さんの姿だった。冤罪をかけられても、奥さんを殺されても、恨まない憎まない。それよりももっと有意義なことに自分の残された時間を使う。しかし、そのように自分を律することのできないから人は苦しむのであるが、その苦しみもまた、自分が選んでいることとして、彼は突き放すのである。

 河野さんと会ってから、私は改めて「謝罪」ということを考えるようになった。いま、なにかにつけて「謝罪」を求めることが多い。そして、謝罪のあるなしで、刑の重さが変わったりもする。私たちの感情に訴える謝罪をすれば、その者は反省しているとされる。しかし、それなら反省したふりなど簡単ではないか。命が惜しければいくらでも謝罪したらいいのである。しかし、そのような謝罪がいったい何になろうか。
「なにをしたかは、自分が知っている。それで充分です」
 そう言う河野さんの言葉が、ニュースを見ているとき、新聞を読んでいるとき、私の耳に蘇ってくる。そして、私はいつも同時に我が父のことを思い出すのだ。父は私の兄が自殺したあとも、ずっと兄のことを蔑む言葉を吐き続け、あいつは人間の屑だとか、あんなダメな人間に育ったのは母親の教育が悪かったからだ、と言ってはばからず、私は父がちっとも兄の苦しみを理解しないことに腹を立て、父をひどい親だと思っていた。
 だけど、そんな父がガンになり、病院に入院して認知症になったとき、自分の歳すらわからなくなった父の病室に家族の写真を持って行ったら、父は、なんと兄の顔を指さして、子供のように号泣したのだった。父がどれほど兄を死なせたことを悔いていたのか、私は父が認知症になって始めて知ったのであった……。
 人間の心にあるものはわからない。もしかしたら父は自分でもわからなかったかもしれない。兄に対する思いと愛情と懺悔、それがいかほどのものであったのか父以外には誰が知ることができよう。だから、ほんとうに河野さんのおっしゃる通りかもしれないと私は思った。人の心はその人しかわからない。だから、自分を裁けるのは自分だけなのだ……。


 明日は8月6日で、この時期になるといつも「原爆を落としたことの謝罪」ということが話題になるが、私はもう謝罪を求めることを止めたいと思うようになった。もし、私が逆の立場で、原爆製造に関わった者であるなら、とうてい原爆被害の事実など認められない、認めたら狂ってしまうのではないかと思う。あまりにも重い歴史的な事件の責任を個人が引き受けることは不可能である。誰も責任など取れない。アメリカ人も日本人も戦争の責任を個人が取ることは不可能である。そうではないか?
 私の友人であった被爆者のマサじいがこう言った。
「核兵器は人間の心にある、恐怖が作り出したものなのだ。たくさんの人間の恐怖が集積して原爆を作るというエネルギーになって、作りあげたものなのだ。その恐怖のエネルギーはとても大きい、だから、多くの人が反対しても結局は作り出されてしまったのだ。もし、人間が恐怖心を捨てたならば核兵器は必要なくなる。だが、恐怖というのは人間と共にあったもっとも古い感情だ。だから、恐怖というものがあることを認め、その恐怖と共に生きて行く智恵を取り戻さなければならないんだよ」
 中略

 「あなたが憎しみや、恨みや、怒りを、他人に向けることなく、執着せず、それが消えていくのを許せばいいのだ。それが、平和への唯一の道なのだ。田口さん、平和はあなたの外にあるのではないのだ。平和というのはあなたの心の状態のことを言うのだ。あなたの内側にあるもの。あなたを満たしている慈愛。もし、平和に実態があるとするなら、あなたがそうなのだ。あなたの外にあるのではなく、あなた自身の問題なんだ」
 マサじいはいつもそう言っていた。でも私は自分が変わりたくはなかった。私はいまのままでよくて、他人を変えたい、世界を変えたい、そう願っていた。でも、マサじいは、それは違うよと言ったのだ。
 世界は変わらない。他人も変わらない。でも、あなた自身はこの瞬間、たった今、変わることができるよ……。
 マサじいが、亡くなってしまってから、かえってマサじいの声がよく聞こえる。この頃はまるで耳鳴りのように、響いてくる。
 田口さん、私はあなたに伝えてほしい。平和は自分の外にあるのではない。平和は誰かを無理に変えて作れるものではない。平和を目指せばきっとまた誰かを不幸にする。平和を目的にしてはいけないよ。平和とは形のないものだから、平和を目的にすると人間のエゴと結びつきやすいのだ。平和は、あなたの内側にあるもの。心が平安であること。もし求めるなら、あなたの心のなかに求めてください。
 もし、心が平安であったなら、私たちはもっと多様な議論ができるだろう。反対意見の相手と話し合いができないなら、闘いは永遠に続くしかない。人間の恐怖を見つめるためには、それが、外部に表現されることが必要だ。芸術はもっと原爆を題材にして自由な表現をしていいはずだ。映画も、文学も、想像の自由によって、さまざまな方法で、アプローチでこの問題を扱っていい。タブーを作ってはいけない。囲い込んではいけない。恐怖はみんなで見るのだ。そして、それを自由に扱えるようになるのだ。怖れのあまり、原爆のすべてを葬ろうとして、それを表現にタブーを作ってはいけない。被爆者と若い世代やアーティストは積極的に対話したほうがいい。オバマ大統領に広島に来てほしい。そして、彼がなぜこんなにも核兵器廃絶に本気なのか、その本当の理由を語ってほしい。平和は運動になっていはいけない。平和を目的化してはいけない。対立しないこと。さまざまな意見に対して開かれていること。自分の考えであること。ミーハーであること。私なりであること。そして、私の心が穏やかであることを望むこと。たとえ、怒りや憎しみをもっても、自分を責めないこと。恐怖も、怒りも、憎しみも、悪すら、不要なものはなにもない。人間に起るすべての感情は自然であり、ただ、見つめていれば、消えていくものである。自然から学ぶこと。自然と生きる智恵のなかに、怒りや憎しみとのつきあい方もすべて含まれている。私たちは自然である。だから、自然に学べばいい。

田口ランディブログ抜粋

ハチクロ から 「ハチロク」を思い出しました。

※ 8月6日のニュースは年々小さく扱われるように感じます。
※ チェルノブイリの原発事故でどれだけの被害が出たか

チェルノブイリの子供たちの日本での保養の御手伝いボランティア
放射能の無い日本で2週間過ごすと見違えるほど元気になるのです

下記にも写真あります
ホーピング代表の活動を手伝っていました。40歳台の頃です
今は、日本へ呼ぶなんてとんでもないです!

※ 福島の原発事故では隠されているもっと大変なことがあるのではないか
※ ゴミ捨て場の無い状態で発電を続けていってあと何年行けるのか
※ 自分の世代が良ければかまわない政治家に投票している人がなんで多いのか

※ 70歳代の私は逃げ切れるかもしれないが、原子力発電所を持っていれば、攻撃されても、事故を起こしても、ゴミがあふれても大変なことになる

※ 福島の事故が起きた時、チェルノブイリの教訓で風向きをすぐに私は調べた。東京には吹いてきていない。どこへ?北向きに。その方向へ逃げてはいけない事は素人の私でもすぐに分かったのに。原発から離れるつもりでも黒い雲は追いかけてくる。
チェルノブイリの風下がベラルーシだった。日本へ保養に来ていたベラルーシの子供たちのその後はどうなったのだろうと思う。健康面も、社会情勢も

田口ランディからいろいろなことへ展開してしまいました。今日はここで

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