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「女系図でみる驚きの日本史」に紫式部②

前回では、私は紫式部の夫に期待する書き方をしていますが、
「光る君へ」では、期待外れのような形で進んでいるようです。


テレビより先に進んでしまいますが、

紫式部が賢子を産んで夫と死別し、中宮彰子に仕えている頃になると

紫式部という呼び名が表す力

女房の呼び名は、自身の性や、夫や父の任国や官名を組み合わせて付けられることが多い。
だが紫式部は例外だ。
もとは、藤原氏という自身の性と、父為時のかつての官職、式部丞から
「藤式部」と呼ばれていた。
それが彼女の書いた『源氏物語』が有名になると、ヒロインの紫の上(若紫)から「紫式部」と呼ばれるようになる。『紫式部日記』には藤原道長が彰子中宮の御前にあった‘’源氏の物語‘’を見て、冗談ごとを言って口説いてきたり、藤原公任が、
「このあたりに‘’わかむらさき‘’(若紫)はおいでですか?」
と、紫式部に声をかけていることが記されている。物語は女子供の慰み物と考えられていた当時『源氏物語』は当代一の権力者である道長や、名高いインテリの公任にも愛読されていたのだ。

P76


「光る君」では、この時代まで描かないかもしれないが、

恩恵をこうむった一人娘の賢子

そんな紫式部の「名」によって最も恩恵をこうむったのは一人娘の賢子だ。
「栄花物語」巻第二十六で、‘’紫式部‘’の名が記されるのは、賢子が親仁親王(後冷泉天皇)の乳母に選任された時のこと。親仁親王の乳母は三人選任されているが、賢子以外の二人は夫や父の名と共に紹介されているもの対し、賢子だけは、
‘’大宮(彰子)の御方の紫式部が女(むすめ)‘’
と、母の名と共に紹介されている。
中略
わざわざ母の名だけが記されるのは、それだけ紫式部の声望が高かった表れで、賢子は、本人の資質もさることながら、一つには紫式部の娘だからという「母のコネ」もあって乳母に採用されたのだ。

P76~78

乳母に力が一族に影響..

院政時代には妻の実家ではなく、乳母が力を持つようになったと。
乳母の子が入内している。賢子から五代目の範子が後鳥羽天皇の乳母になり、娘の源在子が後鳥羽院に入内して土御門帝を生んでいる。

P83

紫式部の子孫は意外なまでに繁栄している。
紫式部腹でない宣孝の子孫も混ぜれば、院政期貴族社会の中枢を担っていたと言えるほどだ。

P84


これも、話が先過ぎて、たぶん「光る君」には関係ないが、

紫式部と清少納言の意外な接点

紫式部と清少納言の子孫は思わぬところで交わっている。
中略
紫式部の孫息子と清少納言の孫娘は恋人同士だったことがこの歌(後拾遺和歌集)で分かる。

P86

この本では②で、紫式部に関連する内容は終わりです。

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