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亡き母が作った手書きの小冊子

掃除が嫌いな私は、20年忙しさにかまけて根本的に片付けていない。
片付かないながらも、書類の山を積み替えていると、出てきたコピー。
「株式会社 山口文洋堂 三十五年の歩み」母の手書きと活版印刷かな。
1947年創業+35年 1982年に書いている。

昭和の典型的な商売一筋夫婦だった

父は良い社長だったと思います。商売熱心、同業者にも尽くしました。
母も良い専務だったと思います。頭が良く気丈だが人には優しい人でした。
「自分に厳しく、人には優しく」と言っていました。
会社の中の輪が保たれ、順調に会社は成長しました。

創業 昭和22年

東京駅八重洲通りを駅を背にして歩いて15分、八丁堀一丁目。

おもしろ発見 その2【八丁堀、与力、同心、時代劇】

「八丁堀」と聞くと、さまざまな時代劇を連想します。八丁堀3丁目の京華スクエア前にある「八丁堀の与力・同心組屋敷」説明版によると、実際に与力と同心たちが住んでいた屋敷は、現在の八丁堀1~2丁目、日本橋茅場町1~3丁目にあったそうです。江戸初期にはこの辺りは寺町で、寛永12年(1635年)に江戸城下の拡張計画が行われ、多くの寺が郊外へ移転し、そこに与力、同心の組屋敷が建てられました。ちなみに与力は徳川家の直臣、同心はその配下の侍衆。南北両町奉行所には、合わせて与力50名、同心280名が勤務していたそうです。

中央区の街づくり

八丁堀周辺は発展し続け今ではビルが立ち並んでいます。
向かい側の茅場町を含めての再開発の予定もあると聞いています。

でも終戦直後の創業当時は「草野原」だったと。

牛が歩いていたと聞いていました。
馬場通りとは、高田の馬場へ通じていたというが皇居にぶつかる?
茅場町と八丁堀の間の道

長く従軍。復員後、戦前仕込んでくれた伯父さんを東京へ呼んで恩返し

八丁堀から千住へ リヤカーで配達に行ったこともあったらしい。

戦争に長く行きました。戦争中の話はしない父でした。戦友で生きて帰った人は少なかった。せっかちで先に進んでいたら後ろに砲弾が落ちたとだけ。

母、お見合い結婚で上京

「仕事悪」があると本人談。本当はコスモスの様に優しく生きたかった

男が戦争に取られて、女学校そこそこに山の分校の先生になったと聞いています。母に先生はぴったり。男の先生が復員してきて、、、
昔、戦前の女学校の時の刺繍作品を見たことがあります。和裁は材料がなく習えなかったと。母は、商売一筋男勝りに仕事をしているけど、環境が違えば上品な奥様になったかもしれません。
母はよく「仕事悪」と言っていました。仕事では嫌なこともキツイこともしなければならない。自分の心本位でないのに。と言っているようでした。

社是 社訓

和を重んじ協調する。堅実経営。従業員の幸福を目指す。成せば成る。

創立20周年 1967年

母は人工股関節手術を受ける先駆者だった

 母は子供の時から片側の股関節が悪く、無理がたたり痛みがひどくなっていきました。父は他人事でかばってくれません(こういうことが後に引くんです)。
 42歳で当時先駆的だった人工股関節手術を思い切って受けるほどの痛みだったと思います。術法も進歩しておらず出血多く輸血。4か月入院しました。痛みから解放されましたが、多分輸血で肝炎感染してしまいました。
 術後20年過ぎるころから、足の長さの差が大きくなり、徐々に歩行が遅くなりました。同年齢の人に比べると運動量は減り、老化が早まりました。

父昭和の終りに他界 母は21世紀に入ると他界

 父は平成元年1989年に他界し母は独居となっていました。
 軽い脳梗塞を2度起こしていたので血液サラサラの薬を服用しており、2001年夏に73歳で脳出血発症し出血がすぐに止まらず搬送後2日後に逝去。
社員の目の前で倒れ、孤独死は免れたのは母の強運。

 介護が必要になりそうという時だった。多分母の老化を分かっていた同郷の友人3人は亡くなってすぐに自宅に来てくれて「良い死に方だった」「むすめ孝行だ」と言った。


孫二人目は男の子
真夏以外は着物だった。
姑と母とを車に乗せて、旅行へ。電車で旅行は二人とも無理。
43歳でやっと取った免許。姑の通院同行、母の買い物同行にも役立った。


仲が良い訳ではなかった両親

父と母は大げんかをするわけではないが、家庭内離婚に近い状態だった。
父は外面が良かった。良い社長だったが妻への思いやりは無かったというか出せる年代ではなかった。良い旦那さんと人に思われるのが嫌だった母。
父は東京都事務用品組合に永年寄与した。

足元危ないので、2cmくらい短く着付けした。

1989年には、黄綬褒章をいただいた。

母は加賀友禅を着ている 娘が着付け師って良いでしょ
自宅で着付けができるって、高齢者には助かると思う。

 胆石手術後肝臓も患っていた父は、叙勲の年の暮に検査入院し2日目に急逝した。病院でなかったら警察沙汰になったかもしれない。
 検査入院前日に髙島屋へ行き、快気祝いを自分で送っていた。亡くなってから関係者宅へ亡くなった父から品物が届いた。最後まで律儀だ。
私の家のそばにマンションを買い必要なら介護をしてもらう準備中だった。
娘に介護はさせないよと言うように、亡くなった。

苦労した母は報われた

黄綬褒章を叙勲した時に、父から「お前のおかげだ」と言われて報われたと母が言っていた。

※ 古参の社員の妻(妻は元従業員)から離婚の相談を受けた時、母は「お互に配偶者が居ることは社会的信用、子供の為にも良いと思う。できれば離婚しない方が良い。」と答えた。と、後日私に話したことがあった。

一言で言うと、良い夫婦で終われて良かった。
姉の夫が社長業を引き継いでいる。3人の孫(姉の子)にも恵まれた。
父70歳、母73歳で、それぞれ身体が弱りかけた時に、御浄土へ旅立てた。
故郷には二人とも後継ぎがいるので、東京で父の実家の宗派浄土真宗の寺の墓を買ってあった。
子供に、介護で親孝行をさせなかった。本人たちにとってそれは良かった。

※ 時間軸がゴチャゴチャな文章でした。読みにくくごめんなさい。
※ 親を介護しなかったエネルギーを、職業で使うこととなりました。


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