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旧水戸街道はどこを通っていた?

葛飾区の北寄りで、ケアマネを3年程していました。
「旧水戸街道」という表示に2か所くらい出会いました。
いつか辿ってみたい、地図帳に描いてみたいとなんとなく思っていました。
地図帳に描きかけの線も見つかりました。
あそこにあったなという淡い記憶になってしまいました。

住んでいる足立区千住が出発地じゃないの?


と気づいて、
気づいた目で探すと、
あらあら、「旧水戸街道」ありました。
数年前から、あたためていたことを、今日写真を撮り足して発表します!

旧日光街道から荒川放水路へぶつかるまで

旧日光街道を北へ(荒川に向かって)歩きます。横山家住宅を右に見て左に槍かけ団子屋さん。板垣通りと交差するところで右へ曲がり水戸街道へ入ります。

横山家住宅
建て替え前の「かどや」
今の「かどや」

東入る 旧水戸佐倉道

旧道を北に向かって歩いて板垣通り(中央図書館からの広い道)とぶつかる角 
ここからは、一方通行(出口)の細い道になります

道に入る前に 板垣家住宅

板垣家住宅
水戸街道入口(写真手前が入口)の向かい側にあります。

国登録有形文化財に登録予定の旧板垣家住宅は、江戸時代、千住宿として栄えた旧日光街道に面する洋館付和風住宅。昭和13年築の瀟洒なたたずまいを生かしながら、内部はリノベーションされ、日本料理店『和食板垣』として営業されています。

国の文化審議会は、「千住宿の日光・水戸街道分岐に位置する洋館付二階建て和風住宅。入母屋造りの玄関脇に設けた洋館は、切妻造りフランス瓦葺きで台形出窓が瀟洒。街道沿いの伝統的景観を形成し、現在、料理店として活用。」と評しています。

板垣家の歴史など
江戸時代から千住に住んでいた旧家板垣家は、大正時代には農家として現在の荒川の中に位置していましたが(川田耕地)、大正2年、荒川放水路掘削にあたり、現在の千住五丁目に転居。その後は荒物屋を開業し、商売を営んでいました。現在の建物は、東京市議会議員を務めた板垣信春氏が昭和13年に住宅として建てたもので、旧日光街道と旧水戸街道が分岐する位置に現存します。板垣信春氏は、新道の建設に注力し実現に導いたことから、板垣家が面する道は地元では“板垣通り”と呼ばれています(新道の計画はのちに中断)。

大正期から昭和初期にかけて、和風住宅の一部に洋風の応接間のついた住宅が全国的に建てられましたが、旧板垣家住宅には、その典型的な建築様式が見られます。玄関の格天井や床の間の違い棚、欄間や建具等に繊細な細工がなされ、当時の当主と大工のこだわりが感じられます。

写真右側の青い屋根の部分が洋室部分。外観の出窓のほか、洋室部分は内部の意匠も洋風。この部屋は『和食板垣』で予約できる個室として使用されている令和2年「和食板垣」としてスタート
令和2年、当時の当主・板垣稔氏が当家の相続にあたり、建物を残し活用してくれる方への売却を希望。幼少のころから板垣邸を見て育った、近藤温(あつ)思(し)さんが土地・建物を購入し、令和2年(2020年)11月より、「和食板垣」として営業しています。

「旧水戸街道」に入りました


細い道です。

曲がってすぐに「旧水戸街道」表示
線路の向こうに清亮寺があります

旧水戸街道に入って線路をくぐって、清亮寺です。

次の線路の手前です
境内にある 清亮寺 説明


「槍掛けの松」の碑
次の線路をくぐって
荒川放水路にぶつかりました。向こう岸は小菅です。
土手に上ると、はるか向こう岸に、小菅拘置所が見えます。

これで、千住地区の「旧水戸街道」は終わりです。


葛飾区の「旧水戸街道」の説明をする人の中には、荒川放水路ができたので。始まりは小菅ですと言う書き方を見ることがあります。15分位の行程ですが、足立区千住に「旧水戸街道」あります。
※ 足立区の表示は分かりやすく、きちんとしている印象です。

葛飾区の「旧水戸街道」については改めて書きます。



参考に、荒川放水路が「旧水戸街道」を分断する前の地図です。

古地図

明治時代の、「荒川放水路」以前の地図です。

千住を南北(上下に)に通る旧日光街道。千住北組から東へ(右へ)通る真っ直ぐな道が、旧水戸街道でしょうか。
伊藤谷(いとや)村、現在綾瀬川に「伊藤谷橋」が掛かっています。小菅駅の東です。上千葉村もありますね。

太陽コレクション地図 江戸 明治 現代 昭和52発行
明治11年「實測 東京全図」

大好きな神保町めぐりで、だいぶ前に買いました。
「江戸 東海道」特集でした。旧東海道を歩くみたいなことが流行っていた時期でしょうか。付録の大きな地図2枚のうちの一つです。
散財して、本棚をふさいでいましたが、役立つ時が来ました。
ホントに端っこに載っていました。




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