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ばっちゃん記《その弐》

ばっちゃん記《その壱》では、今年90歳になった私の母和子の生い立ちについて、聞き書きをはじめたいきさつと、和子の父親(私の祖父)である藤田敬一のルーツについて、わかったことをまとめてみた。

《その弐》では、和子の母親(私の祖母)千代子の実家について、わかったことをまとめ、昭和のはじめ頃の家族生活について、和子の6歳ごろまでの記憶と古い写真で辿った。

文中、引用の部分は和子の語りであり、地の文は私が考察を加えたものなので、いちいち視点が変わって紛らわしいかもしれないが、お間違いなく。


1. 千代子の実家・菅野家

母千代子の実家の菅野家も渋谷にありました。氷川神社のすぐそばでした。母は八人の兄弟姉妹の上から二番目だったので、菅野の家には若い叔父・叔母たちがいて大変にぎやかでした。

私は3歳まで九州の佐伯に住んでいましたが、母は実家の菅野家によく里帰りしていましたし、2歳下の妹道子も、私と同じく渋谷の日赤病院で生まれているので、お産のときは実家の世話になっていたのだと思います。

佐伯から呉(くれ)に引っ越した後も、またその後横須賀に移ってからも、妹ともども、渋谷の菅野の家で過ごした記憶があります。藤田の家と菅野の家は、子供の足でも歩けるくらいの距離にあったので、よく行き来して両方の祖父母にかわいがってもらいました。

①A菅野家があった氷川町 ②B藤田家があった永住町 ③和子と道子が生まれた日赤病院 ④敬一が通った麻布中学 ⑤敬一がポートレート写真を撮った南青山の写真館
菅野家の西側にある広い道路は明治通りで、昭和の初め頃すでに舗装され市電が走っていた。

菅野の家は陸軍の関係者が多く、祖父の周三は陸軍の軍人でした。母のすぐ下の叔父(周男さん)も陸軍に勤めていました。太平洋戦争が始まるまでまだ間があり、日本が軍備増強に力を入れていた頃なので、軍に勤めるというのはエリートコースだったのでしょう。

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写真右上が千代子。左は陸軍に勤めていた周男。左下は妹の幸子、中央はその下の妹の孝子。千代子は妹たちをとてもかわいがっていた。(右下の子は誰かわからない)

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菅野家については、戸籍謄本のコレクションがないため、詳細がわからない。いずれ古い戸籍を取り寄せて、詳しく調べてみたい。
私の子供時代、曾祖母のさださんはまだ存命していて、祖母(千代子)の家で会った記憶がある。丸眼鏡の優しそうな人で、「すがののおばあちゃん」と呼んでいた。

余談だが、子供のころ祖母の家へ行くと、祖母の妹たちが遊びに来ていることがよくあった。私にとっては大叔母にあたる人たちだが、その一人は祖母も母も「たこさん」と呼んでいたので、「タコ」さんだと思い込んでいた。「孝子さん」だとだいぶ後で判明(小川孝子さん)。
もう一人の人のことは「中野のおばさん」と呼んでいた(大島幸子さん)。

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千代子の兄弟姉妹。ここに写っている6人のほかに、千代子と姉の君子。君子は千代子より前に結婚している。
男子4人のうち、一番下の男の子は早くに亡くなっていて、和子は会ったことがない。
後ろの左が周男(かねお)中央が周光(かねみつ)右が周行(かねゆき)。周光は「慶応ボーイだった」と和子は言う。和子の子供時代、大学生だった周光は呉にも横須賀にもよく遊びに来てくれた。

菅野の家は、菅野周三・さだ夫婦と8人の子供たちで、10人の大所帯だった。しかし、戸籍によると周三の本籍地は「東京市芝区三田2丁目13番地」となっており、初めから氷川町に住んでいたわけではない。

周三は陸軍に勤めていて、さだと結婚後砲兵工廠勤務となり、関西に移転したようだ。二女千代子の出生届は「京都府宇治郡宇治村字五ヶ庄大阪砲兵工廠宇治火薬製造所第参号官舎にて出生」と宇治村役場に届け出られている。

その後一家は大阪に引っ越し、千代子は大阪府千林尋常小学校に5年生まで在籍している。(通知表が発掘されたのでわかった情報。)

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ということは、氷川町に住み始めたのは、早くても大正9年以降ということになる。もっとも、氷川町の家は新築ではなかったようだ。和子が知っている氷川町の家は、すでにいい具合に住み古された感じだった。

周三の本籍地である三田には、和子の子供時代にも菅野家の親戚が住んでいたらしく、和子は「三田の誰々が~」という会話をよく耳にした。
周三は分家して三田に本籍を定めたのだが、本家は千葉の大農家で、和子も母親に連れられて萱葺きの大きな家を訪れた記憶がある。

氷川町の家も大きな家で、台所には大きなかまどが二つあった。庭も広くて、池には鯉が泳いでいた。畳敷きの広間と六畳や四畳半の部屋がいくつもあり、女中や下働きの人が何人か住み込んでいた。

下の図面は和子が画いたもの。和子にとっては、幼いころから空襲で焼けるまで、たびたび訪れた懐かしい祖父母の家である。
小学校5年生の時には、佐世保から引き揚げて杉並の家に住み始めた家族と別れて、この家の二階の7畳に下宿していた。

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しかし、細部までよく覚えているなあ。そして、建築学科を卒業して設計の仕事をしていた(そんなに長い間ではないが)だけあって、正確に間取りを再現している。ただし、これを画いたのは20年ほど前のことだ。

明治時代中期の建築らしく、玄関をはさんで左側の、普段あまり使わなそうな客間と応接室がとても広くて立派であるのに、家族10人+使用人が使う日常スペースはごちゃっと狭くて収納も少なく、ここで本当に10人が寝起きしていたのかと疑いたくなるほどだ。

二人いた女中は、3畳間に押し込まれていたのか。女中部屋は台所・風呂場・洗濯場(井戸)など手が必要な場所に直結していて、当時の家庭生活が目に見えるようだ。

渋谷といえば今は都会の繁華街だが、当時の住所は「東京府豊多摩郡渋谷町大字○○」である。

昭和初期まで、電気と水道はあったが都市ガスはもちろんなく、かまどでご飯を炊いたり、薪で風呂を沸かしたりしていた。
庭に井戸があるので、大正時代には井戸から水を汲んで料理や洗濯をしていたのだろう。

道路も住宅地は未舗装のところが多かった。しかし、菅野の家は市電の通る明治通りに近く、国鉄の渋谷駅にも出やすく交通の便はよかった。

当主の周三は耳が遠くて、新聞を丸めて耳に当て、人の話を聞いていたという。砲兵隊に所属していたので、いつも大砲のそばにいたせいで耳が遠くなったのだと和子は聞いた。


2.佐伯時代(0歳~3歳)

大分県佐伯市は、自治体名として正しくは「さいきし」と読む。これは大正5年、佐伯町会が地元での呼称に合わせてそのように表記することに決めたことに由来する。

しかし、和子は「さえきに住んでいた」と言い、「さいき」とは発音しなかった。
昭和9年、佐伯には海軍航空隊が設置されることになるが、このような国の施設は「さいき」の呼称を採らず、「さえき」海軍航空隊と呼称された。和子の父親の藤田敬一は、この海軍航空隊関連の施設を建設する目的で佐伯に派遣されていた可能性が高い。


私は3歳まで佐伯に住んでいましたが、この頃の記憶は当然ながらありません。ただ、父が新しもの好きな人で、当時はまだ高価だったはずのカメラを手に入れ、写真をたくさん撮っていたので、赤ちゃんの頃から幼児期までの写真がかなり残っています。

父は自宅に簡単な暗室を作って、自分でフィルムを現像したり引き伸ばしたりしていたようです。

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生まれて間もないころの和子。5月生まれなので、夏に向かう季節に楽々な着衣。おむつが何だか適当な感じなのと、布団の柄が面白い。

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父方の祖母留(とめ)と。渋谷の藤田家での写真か?
このころ、祖父の鐇(たつぎ)はすでに亡く、留は一人暮らしだった。

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母親の千代子と。六か月頃か?着ぶくれている。

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お誕生頃のポートレート写真。台紙に、「渋谷道玄坂・江崎写真館」と印刷されている。千代子が子連れで里帰りした折に撮ったものか。

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こちらは佐伯での写真か。乳母車のデザインが面白い。がっしりして重そうだ。後ろは自宅玄関らしき、桟が細かく組まれた戸。

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珍しく父親(敬一)も写っている写真。左側の男性は敬一の実の兄(直喜)で、「こにいさん(小兄さん)」と呼んでいた。


3.呉(くれ)時代(4歳~6歳)

3歳の終わり頃に父親の転勤で呉(広島県呉市)に引越しました。
呉は軍港で、深く入り組んだ湾に向かって建物が立ち並び、後ろにはすぐ山地が迫る坂の多い街でした。海の近くには商店や公共の施設があり、坂を上って行った高台に住宅地がありました。

呉は明治時代以来の軍港であり、昭和12年には呉海軍工廠にて戦艦大和の建造が始まっている。
和子が呉にいたのは昭和8年から11年頃までなので、世紀の大戦艦建造に向けて、海軍関係の施設整備が進められていた時期と思われる。
父親(藤田敬一)の任務は、この呉海軍工廠の施設整備に関係するものかもしれない。

呉市のどのあたりに住んでいたのか、和子の記憶は定かではない。

港近くの大和ミュージアムは、戦艦大和を中心に軍港としての呉の歴史を展示している博物館らしい。海軍施設の多くは、港の左岸(地図では下の方)にあった。

呉では、小人数の家族でしたが「サチヤ」というねえやがいて、わりと大きな家に住んでいました。庭から港が見え、家の前を通る道の下側に小学校があって、運動会のときなど、それはにぎやかでした。

「ねえや」というのは「ばあや」「じいや」などと同様、家に住み込みで働く使用人で、多くは田舎から家事見習いを兼ねて都会の上流家庭に送り込まれた若い娘である。

洗濯機や掃除機などの便利家電が一切なく、ご飯はかまどで炊き風呂は薪で沸かしていた当時は、家事をこなすのに人手が必要だった。大家族ならばなおのこと、少人数であっても、ある程度の収入がある家では子守りや洗濯、掃除、炊事など、家事のために使用人を置くことが多かった。

衣食住に関する毎日の家事のほか、着物を縫ったりほどいて洗い張りをしたりなど、「衣」に関して季節ごとに手でする仕事は多かった。

幼い頃の私の写真を見ると、着物姿と洋服姿が混ざっていますが、そのほとんどは母がねえやを指導して縫わせたものだと思います。セーターなども手編みのものでした。

私が育った藤田の家では、ねえやはいわゆるハイカラな子供服をたくさん縫わされたので、またとない技術を習得することができたのではないかと思います。

住み込みの家事見習いには、「裁縫」「編み物」などの技術を習得したり、「活け花」「礼儀作法」などいわゆる「いいおうち」の作法を身につける、などの側面があり、勤めた家の主人の伝手でいい嫁入り先が見つかる可能性もあった。

昭和のはじめ頃、地方はさておき都会では、子供に洋服を着せることが一般的になっていたようだ。写真の中で、千代子やサチヤは100%着物姿だが、幼い和子は洋服姿が多い。

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左がねえやの「サチヤ」。右の千代子と、年齢的にはさほど離れていないように見える。二人とも、着物の帯の締め方がとても胸高だ。子供服は刺繍やレース使いで手が込んでいる。2歳くらいかな。

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写真の多くはおしゃれ着での外出姿なので、普段着はどうだったのかわからない。
ただ、敬一がハイカラ好きな人だったので、千代子は夫の好みに合わせて洋服生地を求め、おしゃれなデザインの子供服を意識して縫っていたのではないかと思う。

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とてもかわいい、私の好きな写真の一つ。

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手編みのセーター、襟がおしゃれなタック入りのエプロン。「フランス人形」と呼ばれていたハイカラなお人形。

当時は子供用の既製服を売る店が少なく、あっても大変高価だったので、家庭で縫うことが一般的だった。また日常着られる着物に関しては、大人用・子供用を問わず家庭で縫いほどきすることが普通であった。

呉時代、私は大病をして入院しています。
病名はたしか「腸チフス」だったと思います。現代ではあまり聞かない感染症ですが、衛生状態が悪く有効な薬も少なかった当時は、死に至る危険をともなう恐ろしい病気でした。

1ヶ月ほど入院し、ほとんど絶食だったのが辛かったです。お白湯ばかり飲まされていたのから重湯になり、おかゆになり…食パンを小さく切って、温めた牛乳に浸したのをはじめて食べさせてもらったとき、とてもおいしかったのを覚えています。

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入院時の写真。

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このころには、2歳年下の妹道子が生まれている。

まだ幼い長女の入院に、千代子はほぼ終日付き添っていたようだ。当時の病院では、今のような完全看護はあり得なかった。2歳の次女を抱えての看護は、さぞ大変だっただろうと思いやられる。が、和子は「ねえやがいたからね。なんとかなったんじゃない?」と、意外とへいちゃらなのだった。

4.まとめ

和子の父親(藤田敬一)に続いて母親(菅野千代子)のルーツを、わかる範囲でまとめてみた。
両方の古い戸籍を見ていると、東京という都市は地方から出てきた人々によって形作られてきたのだなあと、今さらながらに感じられた。

和子は子供時代、海軍に勤めていた父親の転勤によって佐伯→呉→横須賀→佐世保→市川→杉並と引っ越しを繰り返し、小学校は4校に通っている。次は横須賀と佐世保時代、いよいよ太平洋戦争に突入というころの話を書きたい。




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