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棚を買って生き延びる

自己肯定感が低いのか、人生に退屈しているのかさえもうわからない。自分のことを否定するのもまたナルシシズムであると聞いたことがある。俺はナルシシズムの結果、死のうとするのである。ナルシシズムの極致かもしれない。自己愛が行き過ぎると自己を殺そうとするのである。どこで掛け違えてしまったのか。普通に自分を愛したい。

三十歳のとき、自分の空っぽさに耐えられず、首を吊って死のうとした。三十年間生きてきて、俺の手元には何も残らなかった。どんな仕事をしても自分一人がギリギリ生きていけるぶんしか稼げない。生活保護を下回る収入。家賃19000円の四畳半から出ることができなかった。

俺は基本的に加害者である。ハラスメントやDV、性暴力だと告発されてもおかしくない。相手は泣き寝入りしているのかもしれない。職場であっても変わらない。パワハラもしているかもしれない。三十三年間生きた今でも、俺のなかには何もないのに、相変わらず加害を犯した事実だけは消えない。俺は俺を殺すことで、少なくとも世の中から一人加害者を減らすことができる。もしも何一つできることがなかったとしても、それを行える状況だけは常に俺の手に握られている。

生きていて楽しいことは、パートナーと関わっているときくらいである。あとは死なないために、ただギリギリ今日一日を生き延びるのみである。三十で首を吊ってから、自分のために絵を描くようになった。それは自分がいつ死んでもいいように、自分の生きた証を残したかったからである。それはそのまま俺の遺書でもあった。グッズとして販売できたので、俺が死んでも遺書はネットで注文できる。素晴らしきネット社会である。

人は忘れる生き物なので、俺が死んでも、きっとみんな大丈夫だと思っている。俺が死んでも世界は周りづけることは誰もが知っている。だから本当は、少しずつ人間関係をなくしていって、俺が死んでも誰も悲しまない状況を作りたかった。孤立してしまえば、俺が生きていようと、死んでいようと、誰にも迷惑はかからない。でも今はパートナーがいる。友人がいる。だから俺はこの世に留まっていないといけない。

だから今日は棚を買いにきた。これから生きていくのに必要な棚を買いにきた。俺はこの世に留まる。みんなの記憶から俺がいなくなるまでは。

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