すん

 その日はひどく疲れていた。嫌いな上司の嫌味な一言が身体の奥の方まで沈んでいた。どうしてあんな言い方しかできないのだろう。言い方を少し変えてくれるだけでこちらもやる気を削がれず仕事ができるというのに。

  社会人1年目。就職活動を頑張ったお陰で念願だった会社に就職できたのはいいけれど、思い描いたような毎日ではなかった。人間関係が良好な職場とは言えなかったし、それ以上に自分の能力不足に悩まされる毎日だった。私がもっと注意深かったら、私がもっと要領が良かったら、問題の幾つかは起きていなかっただろうし、人間関係ももっと円滑に回っていただろう。嫌いな上司は本当に嫌な上司だったけれど、上司を嫌味にさせる原因が確かに私にはあった。そのことが何よりも私を落ち込ませた。私が悩んでいることに気付いて一つ上の先輩今村さんがご飯に誘ってくれたけれど断ってしまった。今日の私は人と話すには疲れすぎている。今の状態で誰かとご飯を食べたら、自分の醜い部分を見せてしまう気がした。そんなのは嫌だ。耐えられない。こんな夜は、馴染みの店で一人優しい味わいの定食でも食べたい気分。


 食事処三日月の店内は今日も程よく賑わっていた。見たことのある顔もあるが、その誰とも話したことはない。この店にはいつもちょうど良いざわめきがあった。静かすぎると気を遣うが、うるさすぎても疲れてしまう。その点この店はすべてがちょうど良かった。 

 いつも愛想のいい女将さんが注文を聞きにくる。入る前から決めていた。チキンやわらか煮定食。

「今日は何だか疲れた顔してるねえ。仕事、大変なのかい?」

 学生時代から通っているが、滅多に注文以外の会話をすることはない。でもこの日、女将さんはそう話しかけてきた。それだけ私が疲れた顔をしていたのかもしれない。

「はい、まあ。社会人って、大変ですよねぇ」

「まあねえ、お金をもらうってことはなかなか簡単じゃないわよねえ。私だってそりゃねえ、色々大変なこともあるけど、あなたたちお客さんが美味しそうに食べる姿を楽しみに、何とかやってるわよ。まあだから今日もゆっくりしてってちょうだいな」
 女将さんは優しい口調でそう言って厨房に消える。

 店のテレビではお笑い芸人がネタを披露する番組が流れていた。学生時代はそれなりにテレビも見たりしてお笑い芸人にも精通していたが、就職してからは忙しくなりめっきり見なくなってしまった。最近の芸人はよく分からない。現に今テレビでネタを披露しているコンビも、顔も知らなければコンビ名さえ聞いたことがなかった。 スマホを見る気にもなれずぼんやりとテレビ画面を見るが、疲れているせいでお笑いコンビの早口な台詞が全然入ってこない。そうこうしている間にツッコミの方が「いい加減にしろ」とボケの身体を叩き、コンビははけていってしまった。

 好きだったお笑い番組さえ楽しめないようでは、私、駄目かもしれない、改めて思った。このままでは潰れてしまう。一旦仕事を辞めて休んだ方がいいのかもしれない。そんな考えが頭をもたげる。

 テレビ画面には、また別のお笑いコンビが登場してきた。派手な服に身を包んだ背の小さい方とスーツ姿の大きい方が拍手しながら出てくる。小さい方は茶髪で蝶ネクタイをつけている。その顔を見たとき、世界が揺れた。そして一瞬にして私の頭の中は中学時代にトリップする。



 昼休み、教室ではいつものように尾倉健翔が騒いでいた。背が小さいくせに運動神経がよく、お笑い好きでもあり将来はお笑い芸人になるのが夢と語っていた。校則にギリギリ反しない位に髪の毛を茶色くさせて、先生からは目をつけられるけれどクラスの人気者という立ち位置の男子だった。 尾倉健翔はその頃人気だったものまねタレントのそのさらにものまねをして周囲を笑わせていた。クラスの女子たちはその周りでキャッキャと笑っていた。 

 私はその光景を窓際の隅の席から眺めるとはなしに眺めていて、羨ましいなと思っていた。羨ましいな。あんな風に笑えたら楽しいだろうな。たいして面白くもないことで、あんな風に笑えたらどんなにか毎日が楽しいだろう。笑う基準が低ければ低いほど楽しい人生が送れる気がする。

 当時、私は笑うということがうまくできない子供だった。小学生の時は普通に友達と遊んで笑ったりすることもたくさんあったけれど、両親の毎晩の激しい言い争い、離婚、その後の泥沼離婚裁判、そのことを揶揄するクラスメイトからのいじめなどで、いつのまにか私は笑うことを忘れてしまった。いつも無表情で席に座っているだけの子供。長い間ちゃんと笑っていないせいで笑うということがどういうことなのかよく分からなくなっていた。

 尾倉健翔がにやけ顔で場所移動してくるのが視界の端に映る。嫌な予感がして、私は窓の向こうの青空に視線を向けた。窓にうっすらと映る尾倉健翔の姿はどんどん大きくなる。嫌な予感は的中して、私の目の前の机に尾倉健翔は腰掛けた。

「平山さん、見てよ」

 顔を向けると、尾倉健翔が目を白目にして唇を尖らせて全力の変顔をしている。遠巻きにそれを見ているクラスメイトたちのキャッキャという笑い声が聞こえてきた。笑わない私を笑わせようと彼らが賭けをしていることを私は知っている。尾倉健翔を賭けに勝たせる訳にはいかないから私は絶対に笑わないし、そもそもそんな顔を見て笑えるなら苦労しなかった。

 私が冷たい目で睨むと尾倉健翔は「ちぇっ」とつまらなそうに机から離れ、失敗だったという合図をクラスメイトたちに送る。その時、「何だよ、ブス」と小さく私にだけ聞こえるような声で言った。その言葉に一瞬だけ心臓が跳ねるけれど、相手にしてはいけないと自分に言い聞かせる。こういう人間を相手にしてはいけない。何を言われても気にしないことだ。その時すぐ近くで「……じゃない」というような誰かの独り言のようなものが聞こえた気がしたが、空耳かもしれなかった。私は頭に血がのぼっていた。

 そして、尾倉健翔は次なるターゲットの前に移動した。 私の一つ隣には及川遙という男子が座っている。クラスで一番身長が低い男子。及川遙は笑わないどころか、何も喋らない子供だった。授業中先生に指されれば最低限の短い言葉で答える。が、それ以外はほとんど喋らない。クラスメイトに何か質問されても、基本的に声には出さない。頷いたり、首を横に振ったりして答える。ごく稀に言葉を発することはあっても、それは大抵単語のような言葉で文章になっていなかった。そして自分からは絶対に話しかけることがない。ただ、頭が悪いかというとそんなことはなく、テストの成績はよく、クラスでは常にトップクラスをキープしていた。

 私は及川遙とは中学から一緒になったので詳しいことは知らないが、小学校の低学年くらいの頃はそれなりに友達もいて普通に喋っていたようだ。それが、ある時期を境に何も喋らなくなったのだという。喋らなくなった理由ははっきりしない。私も一つ隣の席に座って数ヶ月経つというのにいまだに及川遙とは一言も言葉を交わしたことはなかった。朝、おはようと言っても首をこくりと傾けるだけで声は発しない。基本的にうつむき加減で目も合わせてくれない。一度、及川遙が教科書を忘れたことがあった。現代文の授業中、教科書を朗読している時間なのにノートをじっと見ているだけなのですぐに分かった。私はそっと机を近づけて、教科書を及川遙にも見える位置に置いた。どうぞと目線だけで合図をして。及川遙は最初どうしていいか分からない様子だったが、その後、少し頭を下げて遠慮がちに教科書を覗いた。授業が終わっても特にお礼も何も言われなかったが、そんなこと期待もしていなかったので何とも思わなかった。

「あいつ何が楽しくて生きてるんだろうな」

 クラスメイトが及川遙の聞こえる場所でそんな風に言うことがあった。私はそんなとき、自分がその言葉を投げられている気がして辛くなった。

「あいつ、全然笑わないけど何が楽しくて生きてるんだろうな」

 別に私は何かが楽しくて生きているわけではないし、きっと及川遙もそうだろう。ただ生きているから生きている。楽しくないからといっていちいち死んでいたら命なんて幾つあっても足りないだろう。強いて言えば、面白いことなんて何もないのに私が何とか生きていられるのは、将来に根拠のない希望を抱いているからだ。いつか私が他の皆と同じように普通に笑えるようになって、毎日を楽しく過ごす。そんな将来がいつか訪れることに希望を抱いているからだ。及川遙にもそんな希望があるのか知らないけれど、あったらいいなと思うし、あるはずだとも思う。

 そんな及川遙だったが、教科書を見せてあげてからしばらく経った頃、奇妙な行動を取るようになった。

 及川遙の席は私の右隣にあった。私の机より少しだけ前に配置されている為、先生の話を聞いたり黒板を写したりしていると及川遙の机の端の方が自然に目に入った。

 机の上に置かれているノート。そのノートの隅の方に授業の内容とは明らかに関係のない落書きのような言葉が書かれていることに私は気づいた。

 あるときは「卵」と書かれていた。数学の授業中だった。長かった髪をバッサリとカットしたばかりの北山先生が因数分解を教えていた。初めて習う因数分解はややこしく、頭を抱えて理解しようとしていた時に及川遙のノートに書かれたその言葉が目に入った。

 存在感の薄い及川遙とは正反対に、卵という文字は堂々としていて存在感があった。だが、数学の時間にその卵という文字はあまりにも不自然だった。ノートに数式を書く必要はあっても卵と書く理由は何もない。学校帰りに卵を買うのを忘れないためにノートに書いているとか? まさか。因数分解を解きながらも、及川遙のノートの片隅に書かれた卵という単語がずっと頭に引っかかっていた。卵、卵、卵……。北山先生が黒板に板書している時、ふと髪を切ったばかりの北山先生の後頭部に目がいった。その後頭部のフォルムが卵に似ていた。殻を割る前のゆで卵のようだった。けれど、だから何だというのだろう。だからといってわざわざノートに書いたりするだろうか。及川遙はそんなことをする人間だったろうか。及川遙のノートに書かれた卵という妙に堂々とした文字と北山先生の後頭部を見比べていると、何故だか分からないけれどお腹が痛くなった。

 またあるときは当時大関に昇進したばかりの関取の名前が書かれていた。その時は英語の授業中で、ネイティブアメリカンのような素晴らしい発音の緒方先生は巨漢の持ち主だった。笑ったときの顔がその関取にそっくりだった。緒方先生が笑うたび、私のお腹は何故か痛くなった。

 またあるときは「ぽ」とだけ書かれていた。それも結構大きな字で。世界史の授業中だった。全然訳が分からなかった。でもそれを見ていると何故かお腹が痛くなった。その後もそういったおかしな落書きは続いた。私はいつのまにか及川遙が次はどんな落書きをするのか、心待ちするようになっていた。

 及川遙は何も喋らないし、私は相変わらず及川遙とまともに喋った記憶がなかった。けれどノートを見ていると私は及川遙と喋っているような錯覚をすることがあった。どういうつもりなのか、及川遙は私にだけメッセージを送っているように見えた。

 私はこのことを他の誰かに喋ったことがない。そもそも喋る相手がいない。友達のような子はいたけれど、そういうことを話せるような友達ではなかった。たとえいたとしても、話さなかった気がする。及川遙のノートの文字は2人だけの秘密みたいなもので、誰かに話してはいけない気がした。

 尾倉健翔は及川遙の目の前に立っていた。ターゲットを私から及川遙に移したのだ。私も笑わないが、及川遙も全く笑わない子供だった。喋りもしないし、笑いもしない。何を考えているのか分からない暗い奴。そういう普通とは違う子供は学校という空間の中では当たり前のようにいじめのターゲットにされる。及川遙も例外ではなかった。そしてそのいじめの主犯格のような男子がこの尾崎健翔だった。

「おっいかわくぅん、元気ですかぁ。生きてますかぁ」

 尾倉健翔は及川遙の顔の前で手を振る。及川遙は死んだようにぼんやりと前を向いているだけで無反応。それはいつものことだった。及川遙は嫌いな人間の前では特に貝のように黙り込んで何も喋ることはない。

 「生きてるんですかぁ。生きてるんなら返事してくださぁい。話しかけられたら答えるのが礼儀ですよぉ」

 尾倉健翔は馬鹿にしたような口調で話し続け、耳に手をやり、及川遙に顔を近づける。
 周りのクラスメイトたちはクスクスと笑ったりやめなよと言ったりしているが、基本的には皆遠巻きにその光景を眺めているだけだ。
 いつものことだけど不快だった。さっき言われたブスという言葉も蘇ってきて、苛立ちが募る。

「及川くんには口がないんですかぁ。その口は何のためにあるんですかぁ?食べるためだけですかぁ。そんな口、意味ないんじゃないですかぁ」

 尾倉健翔は馬鹿にしたような口調で言葉を続けるが、及川遙はぼんやりとしたまま、何の反応も示さない。

 そう、それでいい。そんな馬鹿げた問いかけに答えなくていい、答える必要なんてない。こんな馬鹿な奴と関わるだけ無駄だ。そう思っていたはずなのに、私はいつのまにか口を開いていた。

「あんたの口は喋るためだけにあるの? さっきからうるさいんですけど」

「あん?」

 尾倉健翔は怒りの宿った眼差しを向けてくる。私はしまった、と思ってすぐに窓の向こうに視線を向ける。馬鹿の相手はしないと決めていたのに、つい対抗してしまった。馬鹿の相手をするなんて馬鹿のすることだ。

「お前今、なんつった?」

 私はそれには答えないでずっと窓の外だけを見続ける。

「あ?」

 もうやめなよぉと優等生ぶった女子が言う。

「あんた全然面白くないよ。あんたの口から出る言葉じゃ全然笑えない」

 馬鹿の相手をする私はやっぱり馬鹿だ。でも時には馬鹿にならないといけないこともある。

「お前は誰の言うことだって笑えないだろうが。いっつもムスッとした顔してキモいんだよ」

「お笑い芸人目指してるならそんな私を笑わせてみせなさいよ」

 私は何をこんなに怒っているのだろう。私が笑えないのはこんな尾倉健翔なんかのせいなんかじゃないのに。自己嫌悪で死んでしまいたくなる。でも、怒りは収らない。私は尾倉健翔を正面から睨み付ける。全く笑わない女子の怒りの表情を間近で見た尾倉健翔はかわいそうに怯んだように後退った。

「ったく、何だよ。逆ギレかよ。キモっ」

 そして、動揺を隠せない様子で及川遙の机にどん、と尻をぶつけた。

「お前も何だよ。黙りこくってばっかいやがってよ。せっかく俺が構ってやってるのに。何も喋らない奴相手にどう笑いとれって言うんだよ」

 私には勝てないと思ったのか、尾倉健翔はうっぷんを晴らすかのように及川遙に毒づいた。だが、相変わらず及川遙はぼんやりと前を向いているだけで何の反応も示そうとしない。

「ったく、うんとかすんとか言えよな」

 捨て台詞のように言って尾倉健翔はその場を離れようとする。

 その時だった。

「すん」


 私の隣で声が聞こえた。凜とした響きのある声だった。私はびっくりして、反射的にその声がした方を見た。そこには及川遙がいた。及川遙しかいなかった。

 その瞬間、教室が静まりかえった。少し前からクラスメイトたちの視線がこちらに向けられていることに気付いていたが、今は誰もが及川遙の方を見ていた。 大勢の人間の視線が集中するその静寂の中、及川遙はもう一度同じ言葉を繰り返した。

「すん」

 紛れもなく、その言葉は及川遙から発せられていた。クラスの全員が目撃者だった。さっきよりも自信の感じられる声だった。

 私は突然お腹が痛くなった。及川遙のノートに書かれた落書きを見た時に何度となく感じたお腹の痛みが私を襲った。今回のその痛みはあまりにも大きく、耐えられそうになかった。

「ふぇ!」

 耐えきれず私の口から漏れ出た声は、意外なものだった。

「ふぇっへっへ!ふぇっへっへ!ふぇっへっへ!」

 それは、笑い声だった。あまりにも縁遠いものになっていたのですぐには気付くことが出来なくなっていたが、笑い声が私の口から躍り出ていた。それはほとんど狂ったような笑い声だった。私は自分が笑うのを止められなかったし、そもそも止めようともしなかった。笑いすぎて私の目からは涙さえ流れた。

 「すん」と言った及川遙を唖然と見ていたクラスメイトたちの視線が今や完全に私に移っていた。皆が私を見ている。全然笑わないはずの私が突然狂ったように笑い出したのをぽかっと口を開けて見ている。

 そして、驚くことにそのぽかっと口を開けて私を見ていた人の中に、及川遙もいた。及川遙はそれまで一度もちゃんと私の方を見たことがなかったというのに、その時は顔を完全にこちらに向けてまっすぐに私を見ていた。その目は、私の想像の中の及川遙よりもずっと子供っぽくて、何だか子犬のようだった。好奇心の強い、子犬のような目が、輝いて私のことを見ていた。その瞳の輝きがおかしくて、私は馬鹿みたいに馬鹿みたいに笑い続けた。


 子犬のようなつぶらな瞳。髪を茶髪になんかしてすっかり垢抜けてしまっている。身長は今でも小柄だけど、その存在感は昔とは比べるべくもないほど大きかった。今テレビ画面の向こう側で漫才を披露しているボケ担当は、紛れもなく、あの及川遙だった。「すん」というお笑いコンビを結成して、お笑いのライブハウスみたいな場所で活動していることは風の噂で聞いていた。けれど、テレビで見るのはこれが初めてだった。波のうねりのような爆笑が観客席から沸き起こっている。

 あの「すん」事件の後、私は笑い声を取り戻した。それまで笑わなかった分を取り戻すかのようにちょっとしたことでゲラゲラと笑うようになった。笑いのツボが浅すぎると友達からうざがられる程だった。尾倉健翔のしょうもない冗談にもゲラゲラと笑うようになってしまった。そのせいで私の平山という名字をもじってゲラ山というあだ名をもらい、そのあだ名のしょうもなさにまた私はゲラゲラと笑った。周りが驚いたのも最初だけで、ちょっとしたことで馬鹿笑いする私はすぐにクラスメイトたちに受け入れられた。

 私以上に劇的に変化したのが及川遙だった。あれ以来、及川遙はちょっとずつ言葉を喋るようになった。最初はほとんど文章のようにはなっていなくて、ちょっとした単語だけだったが、その単語を言うことで爆笑が生まれるような、そんな単語ばかりを口にした。及川遙の面白い言葉を聞こうと、クラスメイトたちは休憩時間になると彼の周りを取り囲んで何か言葉を投げかけた。それに対し及川遙は大喜利的に面白い言葉を答えては、クラスを爆笑させた。その頃はもう誰も尾倉健翔のモノマネで笑ったりはしなかった。及川遙から出てくる言葉の面白さと比べると、尾倉健翔の面白さは子供だましみたいだった。その尾倉健翔はといえば、大学時代に出来ちゃった結婚をして、今は町工場みたいな場所で働いていると風の噂で聞いた。

 高校に入学する頃には私のゲラも収まり、私は普通の女子高生になった。友達とお喋りをして、笑ったりして、恋もする、普通の女子高生。笑顔がかわいいね、と言ってくれた陸上部の男子に告白されて、初めての彼氏もできた。そんな頃、及川遙が近くの男子校の文化祭で漫才を披露して、会場中を爆笑させたという噂を聞いた。中学後半の及川遙を思えばそれも全然不思議ではなかった。高校に通い出した及川遙は、入学式からたくさん喋りだして、中学までとは別人のようだったという。

 「すん」の漫才は終盤にさしかかっていた。思い出で胸がいっぱいになり、漫才の内容は頭に入ってこなかったけれど、観客の笑い声や司会進行の芸人やアナウンサーの光り輝くような笑い顔だけが脳裏にこびりついた。

 ボケ担当の及川遙とツッコミ担当が漫才の終盤で諍いになる。子供のように拗ねた及川遙はそれまでの喋りが嘘のように黙り込んだ。

「ああ、もう。また機嫌損ねたんか。何か喋れ」

 ツッコミが言うが、及川遙は黙り込んだまま宙を見て何も喋ろうとしない。その姿は、中学時代の及川遙に一瞬戻ってしまったかのようだった。

「何か喋れて」

 ツッコミに言われるが、まだ及川遙はだんまりを決め込んでいる。

「もう!うんとかすんとか言え」

 そこで初めてボケの及川遙がカメラ目線で口を開く。

「すん!」

 そのすっとぼけた表情にテレビの向こう側でどよっと笑いが起きる。また食事処三日月の店内でも笑いが起きていた。お笑いコンビすんの2人は、頭を下げてその場をはけていった。

「お待ちどおさま。あれ、どうしたの?」

 できあがった定食を運んできた女将さんがびっくりしたように言った。 いつの間にか私は泣いていた。泣きながら笑っていた。

「いえ、今の漫才、おかしくて」

 私は涙を拭いながら答える。

「ああ、すんねえ。最近あの子たちよく見るなあ。確かに面白いよね。ボケ担当の子がいいわ。でも、良かった。ここに入ってきたとき、あなた死にそうな顔してたから心配したわよ。でも、今はすっかり大丈夫そうに見える。お笑いの力は偉大だね」 そうですねと頷いて、女将さんが置いていったチキン柔らか煮定食を食べて、そのほっこりする美味しさにまた泣いた。


 
 食事処三日月を出ると、夜空にはまん丸の月が輝いていた。三日月というお店出たら満月だった、と私は夜道に1人で思って1人で笑う。ゲラ山と呼ばれた中学時代が戻ってきたかのようだった。

 また明日頑張ろう、と私は素直な気持ちで思った。また明日頑張ろう。せっかく就職活動を頑張って憧れの会社に入社できたのだ。頑張ろう。頑張ろう。色々大変だった中学時代と比べれば、今の私が抱える大変さなんてどれもとるに足らないようなことばかりなのだから。

「すん」と言った及川遙の顔を思い返しながら、私はすっかり満たされたような気分で家路を急ぐ。   

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