修羅場にあった人の心を大きく動かすには。

 創作というのは人の心を動かしてなんぼだと考えています。一面として現実の修羅場関係は修羅場に今直面したり、修羅場の心当たりがあれば特に心が動かされるのではないかと思います。

 一方で、例えばこの作品は現実の描像Aを表しているのではないか?と示したとします。ですが聞いた人がその描像Aに心当たりがなかったとしたら根拠がないように見えて通じないんじゃないかと。完全に妄想にしか聞こえないのではないかと考えます。

 この現実の描像Aを表そうとしたときの論拠は何を取るか。

1.筆者が経験した
2. CD全体が一つのテーマBで描かれていると仮定したとき、他の曲についてもテーマBから描像Aが導ける。
3. 筆者以外の人間が描いたコンテンツ等が有り、描いたコンテンツからも似たような描像Aが描ける。

客観性というのであれば下に行くほど「納得し得る」とは言えるでしょう。2,3でかけることがあれば付け加えていきます。

けど別に1だけでも納得すればいいですし、誰かの助けになれば良いとも思っています。

筆者がそもそもなぜ考察を書こうかと思ったかというと、筆者自身が色々修羅場を経験してきて、描像に気づいたからです。筆者が気がついた描像を表に出せばひょっとしたら同じような修羅場を経験している人の助けになるのではと考えて書いています。
そう考えると闇曲の意味がわからないってのは幸せな人生なのかなとも思います。だけど、闇曲の状況はいつ自分に襲いかかるかわかったものではありません。修羅場と言っても所詮、人間の夢や欲望に基づいたので、ある程度パターンのようなものはあるでしょうから。心の片隅において、闇曲の状況に陥った時に客観的に自分を見直す助けになればと願っています。

またそのように考えているので、東方原作側に特に論拠を求めていません。

なので、描像のバックとなる修羅場を経験してない場合には私の描く描像は妄想にしか見えないでしょう。ですがそもそもがすべての人に届くものではないとも感じてますのでその批判は当たりません。また創作は多面的に見えるため、他の解釈ができるからこちらの解釈は当てはまらないという批判も当たりません。

修羅場に心当たりがない人にとっては、なにか世界が統一された印象的な物語に過ぎないのかもしれないでしょう。ですが、一部、自分の境遇や修羅場に照らし合わせて心当たりがある人には大きく響く。

一方でそのような修羅場を美しく描けるのは実際に修羅場を経験した人。

だからこそ、

ひとかどの作家になるのは、ある意味、錯乱、狂気の人だ。
地獄の底までのぞいて、人の世の裏表、人間の素晴らしさ、おぞましさを
見て体験しなければ人が感動するような後世に残るものは書けない。
(田中角栄)

なのじゃないかなと考えます。

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