暗きより
最近孤独を感じたのは、去年の12月くらい。
これはもう戻れないのではないか、という瀬戸際で、何か助けを求めていたと思う。
能力を高めないと生きている意味ないという考えで自分を縛ってた。その過程で、能力を高めるのが麻薬になってた。能力は誰の目にも明らかだし努力した分だけ自己肯定感が上がる、でも能力だけ高める続けると他人の粗が目につくようになって、その人の出来ていない部分を気にしたり受け入れてない自分の人間性が嫌すぎて、自己肯定感が下がるっていう繰り返し。私の人生の目標は人格陶冶だと心の深層では分かってたから、自己肯定感の下がり方も半端なかった。
後から考えるに、ここ3年くらい、人格に自信がないのを、能力に自信がないのだと自分の中で誤魔化していた。正確に言うと、人格を磨くための努力をしていないことから来る足元の覚束なさや不安を、能力への自信のなさにすり替えていた。人と上手く人間関係を築けない理由に対して、人間性を磨く努力が足りないことから目を逸らし、研究や仕事のアウトプットの価値が低いからだと思い込む振りをしていたということね。
心に嘘をつくのは多分、一番やってはいけないことの一つだと再認識。でもこの時は、嘘ついてるって気付いてなかったし、気付ける余裕もなかったように思う。中高年男性達からの性的視線とか、とても近くにいたモラハラの人達から、貶められないように自分を守るのに必死だったのだと思う。
でも、悪いことだと分かりながら悪いことをすると、自分を許してあげられなくなるよね。だから、自分を汚すことは絶対にしちゃいけないんですよ。ましてや、世の中には、ちょっと気を抜けば女性性を消費して貶めようとする人が雑草のようにたくさんいるので。話逸れた。
そういう心境の時、奈良の暗い田舎の夜道を一人で歩いてる時に、なんとなく和泉式部の歌が頭に浮かんで、心境をしみじみと理解した。
暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月
でもその時、確かに寄る辺ない気持ちだったのかもしれないけど、実はこの歌のおかげで、私は孤独ではなかったということになるね。
1000年間、この歌を愛してきた人たちと気持ちを分かち合えたってことだからな。
というわけで、私が感じていた孤独のようなものは、確かに、和歌によって癒された。しかし、なんでこの癒しを得ることが出来たのか、と考えると、難しい。
旅行に行くだけの経済的・時間的余裕、自分を客観視できる精神的余裕(この二つは完全に教育の結果得たもの)、歌の価値を伝え体の中に蓄積させるような教養教育、他者の気持ちへ自分を重ねてきた経験(これが出来るようになったはごく最近)、というか、そうした経験を許すだけの充実した教育環境・家庭環境など、たくさんの環境要因がほぼ全てなのだ。あとはほんのちょっと、自分の中にあった「こういう人になりたい」という気持ちだけ。
最近思うのが、世の中を渡っていくにわたり色々な困難に当たるが、その困難を処理しマネジメントしていく力というのは、非常に高度な訓練の積み重ねが必要なのではないかということ。
ある到達点に至る毎に、舞い上がるような気持ちが湧いてくるのだが、社会から受けてきた恩恵を、社会に、もっともっと困っている人たちに、きちんと還元していきたいと、心から思えるような人間になりたい。
上野千鶴子さんの祝辞は、多分これから、何度も読み返して、生きていく指針の一つにしていくと思う。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html