「成長」とは何か?

「厳しい」というのは、「諦めろ」という意味じゃない。
どうしてそんなにも「100か0か」の思考になってしまうのか。

例えば、「今のままじゃ、A大学に行くのは厳しいよ」と言われた時に、「ああ、僕はもうA大学には行けないんだ」と考えてしまう人の多いこと。

いや、そうじゃなくて。

それがどうして、「今のままじゃ厳しい」と言われた瞬間に、「ああ、自分はダメなんだ」になってしまうのか? どうしてそんなに「100か0か」の選択になってしまうのか?

「今のままのじゃ厳しい」ってことは、逆に言えばそれは「今から意識して自分を変えていければ、未来は拓く」ってことなんだと思うんだけどね。

もし君が「今の自分」を否定されたとしても、それは「未来の自分」を否定されたということではない。「今の自分」が、言い方は悪いけどどんなにダメだったとしても、それが即ち「未来の自分」がダメだということにはならない。そのことを忘れないで欲しい。

人が成長していくというのは、絶えず変わり続けていくということだ。
全ての人間は、変わることで少しずつ理想に近付いていくのだ。

そこで君たちに考えて欲しいのが「自分に矢印を向ける」ということだ。

自分を変えずに、外側(環境・外的要因など)を変えようとする行いではないか。そこに成長は一つもない。断言できる。もしかしたら高校生活はそれで乗り切れるかもしれないし、今後も親なんかが何かしらの形でお膳立てしてくれるのかもしれないけれど、そんなことをしててもいつか必ず壁に当たる。間違いない。残念だが、それはある意味で自然の摂理というものだ。

自分の現状を見つめるということは、とても辛い。とても苦しい。
だけど、それが自分の状況を変える第一歩なのだ。
まず、矢印を自分に向けなければならない。
「自分はなぜこういうことをしたんだろう」「自分はなぜああいうふうに考えなかったんだろう」などなど考えに考え抜いて、より良い「理想の自分」みたいなのを見つけて、その理想像に近付けるように考え方や習慣、行動などを変えていかなければならない。これは、今どんなに状態がよくてもそうだ。

この「矢印を自分に向ける」ということが、僕の言う「自分の人生を生きる」「自分の人生の主人公になる」ということに深くかかわってくる。

自分のことを棚に上げて、他人の対する不平不満を述べているだけでは、それはもう他人の人生に振り回されていることになる。

繰り返し繰り返し、自問自答していきながら考えて考えて考え抜いていくことによって、人は成長していくものだ。もし自分が成長したのであれば、それは必ず他人が気付いてくれる。これは僕の経験から言っても間違いない。そしてその逆に、自分が退化してしまっている時も、誰かに指摘されて気付くことが多い。これまた僕の経験から言って間違いない。たまに、世の中では自分が変わったことをアピールをするがいるが、それっていうのは、幼い子供が自分の頑張りを声高らかに大人に話して聞かせているのと構造的に何ら変わりはない。もし本当に君が変わったのなら、口に出さなくても、それは必ずわかる。伝わる。逆に何も言われないということは、他者にその成長は伝わっていないということなのだ。「その人がそう見えることと、その人が実際にそうであることに差は無い」と言われるが、成長しているように見えないということは、結局成長していないのと同じことなのだ。

非常に厳しい話になってしまったが、以上が「成長」というものに関する僕の認識である。『成長というものは、まず矢印を自分に向けることから始まる。そして、自分の思考や行動について「なぜ」ということを繰り返し繰り返し自問自答していく。それによって大なり小なり人は変化し、その変化こそが成長である。』

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