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人生計画 破戒 墓石

破戒
そもそもこのnoteって何のために書いているのか自分でも良くわかっていない。初期の頃はアニメや映画などの批評とか短編小説とかを書く予定だったのだけれど、いつの間にかこうした変な文章が生成される場となってしまった。全てがやっつけ仕事だ。自分でやってる事なのに。自慰?
なのかもしれない。でも文章を書く事それ自体かなり面倒なのにやっているということは何かしら書きたいって…。特に無いな。

人生計画
マジで俺はこれから何をするつもりなんだ?
中学の時の同級生を全員殴らなくて良いのか?見返さなくて良いのか?進路はどうするのか?文章を書くのか?全てを破壊するのか、しないのか?
…未来を選べ……。

スペースに参戦したり
この前FFの方がスペースをやっていて、凄く面白そうなタイトルだったので飛び込みで入ってみた。インターネッツマナーが全然わかってないから迷惑かけたら申し訳ないし、僕自身の声と会話のスキルが壊滅的に悪いので最初は喋る気がなかったのですが、とても面白そうな会話だったので途中から自分も喋ったり…。スペースにいた方々がほんとに知見の幅がとんでもなく広くて自分の経験不足を実感した。
やはりたまにこうやって自分よりも圧倒的に知見のある方々に脳をガツンと叩き直してもらえるのは気持ちいいし有り難い。もっと精進しなければと思えるし、自分の無知さも知れる。
何より楽しい会話ができて本当に嬉しかった(生活でほとんど誰とも会話してなかったし…)。色々不束なところはあったかと思いますが会話してくれて感謝しかないです。またやりたいぜ。


PS版lainをリサイクルショップに行くたびに見つけ、羨望の眼差しで睨めつけるも値段に睨み返される日々

PS版lain凄いやりたいんですけど今めっちゃプレミア付いてますよね。アニメ版lainがとても好きで、PS版は買えるくらい大人になってお金貯まったら買いてーなーとか数年前から思ってるんですけど値段ガンガン上がってるし多分数年後にはまた上がってるじゃないですか。移植出てくれないのかな…。何かインタビュー記事の中で開発者側の方から「割れでもやれば?」みたいな発言もあったんですが、いやいや、マジコンなどを触れてた世代でもないのでその倫理観に染まることもできず、ネットにあがってるプレイ動画を見るつもりにもならず(だってゲーム媒体でしょ?)、かといって“lain”が好きです!とデカ声で言うにはやっぱりPS版は必須だよなーと思いつつ…。
と、言ってる間にも着々と値段は上がっている。ちくしょー!

インターネッツ 主にTwitter
最近はインターネットをやる時間が長くなった気がする。まともに努力すべきことが目標とかとセットで自分の中に持っている人間はインターネットをやる時間なんてクソ程要らないはずなんですが、僕はそれなりの時間インターネットをやっている。
でも最近は別にTLを見ててもあまり楽しくない。ここは都市開発され始めてかなりの時間が経った。自我のない人間たちが入植してきて…そして…そして…それで?よくわからない。前よりはつまらない場所になったことだけはなんとなく確かに判る。なのに脳が情報だけを求めてネットを触りはじめる。そしてネット側に脳を触られるようになる。
高速道路の高架下にある川みたいな気分だ。太陽を満足に浴びることなど出来ない。自分の上では誰かが通る大きな騒音が一日中鳴っていて、自分はずっと濁っていく。

理性のゲーム
昔はゲームをやったら楽しかった。目の前のタスク、目の前の敵。それらを一つずつ潰していく作業。ある意味単純で子供っぽい作業だが、とても楽しめていた。でも今となっては現実世界の質量が重くなりすぎて雑念のノイズが入る。
趣味はある種瞑想みたいなものだと思う。手元にある趣味と脳だけしか稼働しない世界を一時的に作る。これが多分精神の安静化になっている。
しかし最近は頭のメモリーの大半を瞑想の雑念となる現実世界のタスク、現実世界の敵に対して割かなければいけなくなる事が多くなってきた。彼らは潰れない。無限に湧き続ける。その途方もないつまらなさに気づいた時はもうすでに遅かった。僕は社会の泥沼のゲームの中に半身をつっこんでいた。
その時夢と引き換えに中古の壊れかけの理性を買ったんだと思う。


ノベルゲをやったり、やらなかったり 私はエロゲが買いたいです、エロゲを買わせて下さい
美少女ゲームをやってみて、シナリオがすごく面白くてもテキストを追うことが継続的に出来ない脳味噌になってたことに気づきまして、かなり悲しかったです。自分の見たいものが直視できなくなっている。意識がブレてしまう。
多分今のこのコンテンツが多すぎる時代、つねに消費者側は選択を続けなければならないから、とても疲れるし迷うんだと思う。ショート動画なんか、その選択の重さ(?)をすごく軽くしてるんだと感じる。スクロールするだけ。それに比べて美少女ゲームはどうなんだろう。自分の中で。
音楽とか、本を読むときもこういうふうに視線が合わなくなって逝くのだろうか。それは嫌だな。

他人の
自分の人生が他人のもの と言ったらかなり語弊がある表現のように思えるんですが、なんだか自分の人生が他人事みたいに感じてしまうときがあります。全てを俯瞰して、全てどうでも良くなる瞬間。それが自分の中で多くなってきてる。人生の全体像を予想した時、多分人は狂う。自我の思考と行動実績の質量の差に耐えられなくなる。
とにかく自分の尊敬できる人が周りに居てほしいだけなんです。Twitterとかもそういう使い方をしてたり。でも結局自分と同年代で凄いセンスをしている人を見ると、強い尊敬の念と憧れと共に嫉妬と劣等感を感じる。

墓石
何をやったらいいかわからない。本屋の投資、資格コーナーの隣に置かれているくだらない自己啓発本がマジに思えてくるようになったらそれは僕にとっての危険信号なんだろうか。いやもう危険信号はとうに鳴っていたのか。でもとにかく自分には資格も学力も伸ばそうという気が一向に起きない。真人間として堅気でやっていける自信がない。
周りの人間たちはみんなそういうものに疑念を抱いていないように見受けられる。つまり、ここから先見え透いた瓶詰の地獄のレールに対して特に強烈な拒否反応もなく普通にやっていきますよというようなあの態度だ。あれが僕を困惑させる。理解ができない。多分彼らも僕のことを理解できない。別に何かそのレールに対して対処しようとかそういう行動を指すんじゃなくて、目の前に永遠に地獄が続いてるのに気づいた時の戸惑いが彼ら自我のない人間には無いのだ。
でも努力をまともに出来ない僕はクズなのかな、わからない。クズを表現できるようにならなければ、ただのクズになってしまう。ダメ人間はダメ人間でも踊ってるダメ人間の方が良い。それでも生きていかざるをえない!

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