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我が家のISIS(アイシス)へ

 実家で長年乗っていた車を変えることになった。長年も長年で15,6年ほどになる。トヨタのアイシス。大きな故障もなく走った良い車だった。

 夜空を思わせるような深い紺色の車体。ヘッドはシャープだが背は滑らかなカーブを描き、かっこよく爽やかな顔をしていた。後部座席はスライドドアで、ドアの加減が分からないうちはガチャガチャと強めに開けていた。ごめんね。車内は広く、乗り心地は最高だった。ほどよい柔らかさと硬さの黒いシートでうとうと、眠りかけるのが好きだった。

 我が家は車で帰省する家だったため、何度も何時間も東名高速道路を走った。チャイルドシートに座らされていた時分は、カーナビの画面に「トムとジェリー」が流れていた。何度も見ていたものだから、キミは見飽きていたかもしれない。きっと騒々しかったね。ごめん。

 車の中でご飯を食べるのも好きだった。ジュースを持ち込んで「匂いが残るかな」と親が言うのを聞きながら、ジャンキーなものを食べた。座席を倒して背中を伸ばしながらご飯を食べていると、すごく特別なことをしている気がした。ずいぶん汚してしまったでしょう。ごめんね。

 振動に揺られて寝てしまうのは、ベッドで寝るよりもはるかに気持ち良く、安心感があった。一歩間違えたら大事故になる可能性を、頭からさっぱり無くして寝てしまえた。キミと親のドライビングスキルに感謝しないといけないね。本当はすっかり寝るより、舟を漕いでいる時間が好きだった。目を開けるのは億劫で、でもまだ意識はある瞬間。前で運転する親が「あれ、寝ちゃったかな」と声をかけてくれるあの時間が好きだった。本当は寝てないことに気づいていたと、大きくなってから知った。
 目が覚めて、覚めきらない隙間から覗く夜の首都高が一番好きだった。「もうちょっとで着くよ。でもまだ寝てていいからね」と振り返って言ってくれるのが好きだった。

 カーナビの画面を覚えている。第二東名が出来てからもカーナビを更新しなかったせいで、山の中や海を走っていたのも覚えている。アイコンを犬にしていたから、山の中を駆ける犬がいた。

 親の趣味のプレイリストも覚えている。このおかげでユーミンを知った。有名な洋楽も「車の中で聞いた」曲になった。歌詞を知らないから当てずっぽうで歌っていた。最近になって歌詞の意味を知り、思っていたのと違って驚いた。

 雨の日の駅前や習い事の帰りに迎えに来てくれた。道が混んでいて遅れて来たときは、このまま来なかったらどうしよう、と心細い気持ちになったものだ。キミを見つけたときは毎回ほっとしていたし、迎えに来た王子様のように見えた。ただいま、と乗り込んだ。やったー、と乗り込めた日もあったし、出先で上手くいかなくて沈んでいた日もあった。キミはいつも通り優しく走る。

 車の中でのおしゃべりが好きだった。家の中ではしないような話がぽろっと溢れるような。後部座席でも助手席でも、顔を合わせずに話せることが気楽で、取り留めもないことから大事なことまで車の中で話した。気まずくなると、窓からいつもの景色通り過ぎるのを見ていた。雨の日は水滴が繋がっていく様を飽きずに見ていた。

 免許は取ったものの、運転が怖くてほとんど乗らずじまいだった。でも私は乗る専門で、後部座席と助手席が特等席なのが嬉しかった。キミの後の車では、もう少し運転しようかと思う。

 本当に乗り心地が良かった。ずっと好きだった。どんな車に乗ってもキミには敵わなかった。きっとメルセデスベンツだって敵わない。レクサスだってフェラーリだってランボルギーニだって乗ったことないけど敵わない。わたしはわたしの家の車が一番好きだった。家族の愛と乗っていた。

 最後の日、キミを見納めて、送る言葉が思いつかなかった。どんな言葉も全部を伝えるには足りなかった。そんなとき、ふと口ずさんでいた。

すばらしいときは やがて去り行き
今は別れを 惜しみながら
共に歌った 喜びを
いつまでも いつまでも 忘れずに
『さようなら』 倉品 正ニ

 歌ってみるとやっと足りた。伝わったのかは分からないけれど、自分の中で別れがストンと落ちた。寂しくなるなぁ。ありがとう。別れの歌はこのようなときのためにあるのだと、もしかしたら数々の卒業式よりも実感していた。思いは常に言葉にできないほどあるから、言葉を絞って歌うことでどうにか歌い切った、伝わった、と区切りをつけているのだと。

 ありがとう我が家のアイシス。やさしいキミ。私と弟の誕生日をナンバープレートに載せたキミ。車検にもほとんど引っかからないほど優秀なキミだったから、引き取ってもらった後もまたどこかで誰かに乗られるでしょう。キミのことを大切にしてくれる人に乗ってもらえると良いなと思う。どうかお元気で。また走っていてくれますように。

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