一番先に好きなクレヨンが無くならない僕らは

「どんな色が好き?」
「みどり!」
「みどり色が好き」
「一番先になくなるよ、みどりのクレヨン」
こんな童謡がある。私は今でもこの歌を頭の中で、その当時のうたのおにいさんとうたのおねえさんの声で流すことができるぐらい、なぜか覚えているのだが、果たして本当にそうだろうかと思う。本当にそうだろうか。一番先に好きな色のクレヨンがなくなっていたのだろうか。きっとそうでは無かった。それは今の自分の性質を眺めて推測できる。きっとあの頃からそうではなかったと思う。この話は好きなものを最後に残してしまうぼくら(大きめな主語)と向き合う話である。

 私は好きなものを最後に残してしまうタイプである。例えばケーキの上のイチゴやチョコレートの飾りは一旦隔離して皿のわきに置いて、ケーキを食べ進めてから最後にいただく。プレートの料理をいただくときは、好物が最後に残る。お弁当でもそうだ。むしろそこまで好みではないものを先に平らげてしまう。例えば、皿の端っこのサラダや昨日の残り物の煮物など。自分の中で箸を持った瞬間から即座に優先順位をつけていることになる。
 この好物先か後か問題は、日常のどうでも良いワンシーンではあれど、各人が「なんとなく」でもどちらかの主義に分かれる貴重な問いであると思う。「どっちでもいい」が通用しにくい。もちろん先も後もなく、中盤辺りで食べる方もいらっしゃるだろうが、それでもどちらかといえば前、どちらかといえば後に分かれやすい(個人調べ)私は完全に最後に残してしまう。最近ではもう無意識である。完全に後残し概念が染み付いてしまい、料理を目の前に置いたその瞬間から自分の中のルールに則って処理し、気がついたら最後に好みが残っている。怖い。考えるまでもなく箸を運ぶ手が覚えてしまっている。なので私にとって好物を後に残す行為とは、習慣化されたものとしか言えない。しかし無意識のうちに構築され馴染んでしまったメカニズムこそ、なあなあにせずもう一度改めてじっくり向き合う必要があるのではないか。

 では、なぜ人は、いやこの場合はもう少し絞ってなぜ私一個人は好物を後に残してしまうのか。私が私を分析し私のために私が辿り着いた結論としては、「未来への希望の持続」のためである。
 運ばれてきた料理に「好物がある!」と発見したときに、まず最初の幸せが生まれるとする。それをその場でぱくりといただくのをちょっと我慢する。そうすると食べ進めてる間にも「好物がある!」と思い続け幸せになれるのだ。つまり食べてしまえば無くなってしまうその幸せを、できるだけ長続きさせることを目的としている。好物は舌に乗せた瞬間だけでなく、「存在してる」だけで嬉しいのだ。これを食べてしまえば、あとはどれだけ他に好きなものがあっても「二番目に好きなもの」になってしまう。また苦手なものを残しておいた場合、味が上乗りされてしまう。ハリウッド映画でも、先にいいニュースを話しだしたときは、だいたい悪いニュースの方がいいニュースよりもだいぶだいぶ厄介であり、話の肝であるように。良いものは後から来た方が嬉しいのだ。

 しかしこの方法にはリスクが伴う。それは何よりも鮮度が落ちてしまうということだ。刺身なら言わずもがな、鉄板の上の肉やら、焼きたてのパンやら、冷えたアイスやら、鮮度が重要になるものをわざわざ後回しにしてしまうことは非常に問題である。料理は何より出来立てがうまい。カレーは寝かせた方がよりうまいが、出来立てもまあうまい。あたたかいものはあたたかい状態がうまいし、冷たいものは冷たい状態がうまい。なによりレストランでの食事の場合なんて、運ばれた瞬間がベストになるよう考えられているのだから、テーブルの前に置かれた、手を合わせる、「いただきます」の一口目が理想に決まっているのだ。カップラーンも3分測った方がうまいし、レトルトのものはアレンジの方法があるにしても、血の滲む企業努力で研究された結果に従って食べるのが良い。何遍も実験した結果の理想値なのだから。最悪の場合でも賞味期限は守った方が良い。私はバレンタインの時期に自分用に買った高めのチョコレートの最後の一粒を食べてしまうのが、勿体無くて夏近くまで残してしまう。その頃には、艶々のカカオ色の表面はひび割れ、白く変色し、食感も味もだいぶ変な感じになってしまっている。毎年やる。毎年やるのだ。立派なエリクサー症候群患者である。
 食品そのものも重要だが、舌の鮮度も最初が一番良い。料理が目の前に現れて最初の一口が、一番自分の中で期待値が高まってるというのもあるし、真っ白のキャンバス状態の舌は最初の味を丁寧に受け取る。しかし繰り返していくと段々鈍くなり、満腹中枢が刺激されるころには鈍麻してしまうのだ。いつもやる。いつもこれだ。八分目を越えたあたりに、好物が残ってることに気づくのだ。

 つまり我々は喪失に弱いのだ。存在していたものが消失すること。その悲しみが、存在したことの嬉しさを上回ることが恐ろしくて、いつも二の足を踏んでしまうのだ。一気に話が飛躍したような感じもするが、要点はここなのだ。こんなに悲しいのなら出会わなければよかったとはよく言ったものだが、その感傷を毎食毎食持ち込んでいるのだ。よく飽きないな。
 このテーマは幾年も前から今に至るまで様々なフィクション媒体で問われてきた。小説も漫画もゲームも映画も古典作品もずっとこの話をしてきた。ぼくらの出会いを誰かが別れと呼んだように。ちょっと逸れるがこの曲の歌詞、余計なお世話感がすごくて少し苦手だ。わざわざ言うなそんなこと。とまあ、人間は喪失に弱い。そこで、なんとかしようと不老不死に手を出したり、出会わなければ良かったりと画作するのだ。しかしそのような行為をするのは悪役側であり、主人公側は様々な経験をし、出会いと別れを繰り返しながら、一つの答えに辿り着く。
「いつか終わってしまうからと言って、始まりを怖がってはいけない。終わりがあるから美しいのだ」
 そうなのだ。有限の命を持つ我々にとって、終わりとは必ず誰しもに訪れるものであり、だからこそ憎み嫌い受け入れ救いであったりするのだ。喪失をいちいち悲しむのはそもそも自分が生きている人生にも終わりがあること、その大きな括りの終わりを知っているからなのかもしれない。

 なので我々は喪失を恐れてはいけない。なくなってしまうことは悲しいが、なくなったことだけが全てではない。なくなるまでが在った、と考えるべきである。その前提に立てば、無くなるまでの記憶をより輝かしくするために頑張ることができる。好きなものを残しておくことだけが愛じゃない。例え短くてもそれが最高純度で輝いていたのなら良いではないか。美味しくいただくことが愛ではないか。そう思うのだ。人の人生も短いだけが不幸では無く、その濃度をこそ見るべきといわれるように、瞬間を切り取って最高を目指すべきではないのか。
 

 それでもすぐには変わらないだろう。やはり無くなってしまうのは悲しいし、期待値の引き伸ばしをしてしまう。好きなクレヨンはなかなかなくならない。けれども使われることこそが愛なれば、おいしく食べられることこそが愛なれば、考え方を変え、勇気を持って一瞬の在り方を愛でるのも良いかもしれない。

 つまり何が言いたかったかというと、今年買ったチョコレートは賞味期限前に食べきろうということである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?