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文章にすることの意味



相手に本当の気持ちを伝えるのは、話し言葉ではできない文章ならではのこと。

ただしそれは、何日もかけて内容を練り、何度も何度も文言(もんごん)を推敲し、書き直し…の繰り返し
という全身全霊を尽くした結果の文章でなくてはならない。

言葉だとその場で考えたことを即座に発しなくてはいけないので、これほど深く内容を練り上げる作業が不可能である。
また場合よっては咄嗟に嘘を言ってしまう可能性すらある。

文章なら、その嘘はつくべきかそうでないかすらも、じっくり検討できる。
この点も含め、言葉だともしかして取り返しのつかない結果になってしまうリスクがある。

政治家が国会やテレビインタビューで、しばしば失言をして炎上しまう原因はここにある。
だから事前に質問を提出させておく。
その結果出来レースになってしまい、何の本音も伝わらない形だけの回答やスピーチになってしまう。
しかしこれは、本音を公表するのがタブーである場合にはむしろ必要だともいえる。

想いを伝える場合の文章において、じつはここが弱点でもある。要するに話し言葉のように感情を込めて、強く何かを伝えるということが難しい。

すなわち腹の底から発する「声」という、二者間の空気を物理的、直接的に震わせる素晴らしいメカニズムに乗せて、ダイレクトにぶつける手段には敵わない。

優れた小説家が見事な表現力で、想いを切々と文字に込める。そんな文章なら伝わり方も違うのだろうけど。

こうして考えると、こと恋愛において恋心を打ち明けるような場面では話はそう単純ではない。
むしろ計算抜きで思いの丈(たけ)をストレートに、時には淡々と、その声の持つ生(なま)の抑揚こそが最も相手に響くのだろう。

一方、文字にしたためた想いは何度も反芻(はんすう)して味わうことができる。そして力強い、時には震えているその一つ一つの肉筆にすら表情がある。
この古代から脈々と継がれてきた、恋文というなんとも風情のある手段ならではの、秘めたる力も捨てたものではない。

昨今のメールでイージーにやりとりする文化の効用は、あくまでも限定的なものだと思う。
自筆による手紙のやりとりという奥深いいとなみは無くなってほしくない。

最後に加えておきたいのは、脳の働きという観点からも大切なのが、文章を書き進めていくうちに、新たな発見をするという事実だ。

頭の中だけでは堂々巡りになってしまうテーマも、脳みそを120%くらいの稼働で文字化しているうちにスーッとその壁をすり抜けて思わぬ答えに行き着いてしまう。

似たようなことは会話の中でもありうるが、どうしても深さの程度には差がある。相手があるため、自分だけのペースでとことん思考を詰めることができないからだ。

こんなことをつらつら思い巡らすのも、じつはnoteを続けるようになったからこそだ。
まさに、文章に真剣に取り組むようになった結果のブレイクスルーだと思う。


#書き言葉と話し言葉 #文章の力 #文章 #恋文 #文字化 #言語化  #noteの力








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